Honey Drops

「ああ、早かったんだね」
 扉を開けたと同時のその言葉に、若島津と日向は一瞬驚いたように目を丸くし、それから頷いた。
「反町は?」
「眠っているよ、グッスリとね」
「そうですか」
「で、原因は?」
「大元は精神的なものだろうってさ。それに睡眠不足が重なって、更に季節の変わり目でもあるからね。それで体調を崩したんだろう。それに、あまりきちんと食事もとっていなかったみたいなんだけれど……どうだった?」
「別にそんな風には見えなかったと思うけどなあ…。でも確かに少し食欲はなさそうだった気もしなくもねえか…」
 日向の言葉に、保健医は小さく頷く。
「とりあえず風邪薬と解熱剤を一週間分貰っておいたから、食後に飲むこと。熱が下がるまでは、とにかく安静にさせておくこと。以上だよ。寮の方には連絡を済ませてあるから、後は頼んだよ、二人とも」
「はい。お世話になりました」
「いえいえ」
「じゃあ行くか」
「ええ。すみませんけど日向さん、荷物をお願いします」
「ああ」
 若島津の言葉にそう頷きながら荷物に手を伸ばす日向を見て、ああ、と保健医が呟く。
「そうか、寮まで戻るんだったよね。そんなに遠いわけでもないけど、寮まで送ってあげるよ。今車を回して来るから、正面玄関で待っていてくれるかい?反町君はそのまま、そこの毛布で暖かくした状態で連れて行ってあげて」
「あ、はい」
「起こさないよう、そっとね」
「はい」
 保健室を出て行きながらの言葉に、若島津はそう頷き。改めて、ベッドの上の反町に目をやる。
「気をつけろよ」
「分かってます。荷物多いですけど、お願いしますね」
「ああ」
 日向はそう答え、三人分の荷物を手に、先に扉へと向かう。
 それを見てから若島津は、そっと反町の身を持ち上げる。それから、起こさないよう十分注意を払いながら毛布で彼の身体をしっかりと包んでやり、そのまま抱き上げた。
「……よく眠ってるな。ちーっとばかり苦しそうではあるが」
 扉までやってきた若島津の腕の中で眠る反町の顔を覗き込み、日向が零したのその言葉に、若島津は頷いた。
「そうですね。でも最初よりは少し表情、楽そうですから」
「そうなのか?」
「ええ」
「そうか。だったら少しは安心だな」
「そうだと有難いですね」
「……辛そうなのを見るのは嫌だってか?」
「そりゃあそうですよ。日向さんだって同じ立場になったら、嫌でしょう?」
「……てめえ、それは何か?ケンカ売ってんのか?」
「まさか」
 日向の少々怒りを含んだような答えに、そう言って含み笑いを零しつつ、若島津は寝入っている反町の顔を改めて見る。
 眠っている間に少しは熱が下がってくれたのか、保健室で横になったばかりの時ほど苦しそうではなくなっているようで、若島津は改めて安堵の溜息を零した。
「まあ今回の原因は、はっきりしてるわけだしな」
 と、先を行く日向の突然のその言葉に、若島津は思わず足を止めた。気配でそれを察したのか日向は振り返り、若島津を正面から見据えると言葉を続ける。
「何とかしろよ。解ってんだろうな」
 そう言われて、若島津は小さく苦笑した。
「容赦ないですね、日向さんも」
 そう答え、若島津は再び歩き出す。
「返事は」
「……解ってますよ。嫌って程ね」
 追いついた自分へのその言葉に、そう返し。若島津はもう一度反町の寝顔に目をやった。
 腕に伝わる、そのぬくもり。
 このぬくもりを失うことになるのかもしれないけれど。でもこれ以上彼に負担をかけるわけにはいかないから。
 結論を出さなければならない、その事は解っているのだ。そう、それはもうずっと以前から。
 けれど、やはりどこかで恐れているのだろう。自分と彼とを繋ぐ、たった一つの頼りない糸が断ち切られてしまうことを……。
「まだ来てないみたいだな」
「そうですね」
 正面玄関まで辿り着いた二人は、外の様子を見て短くそう交わす。
「そこで待ってろ。来たら呼んでやるから」
「お願いします」
 日向の言葉にそう答え、若島津はなるべく風のこない校舎内へ留まった。と、それほど間を置かずに日向が戻ってくるのを視界に捕らえ、若島津は外へと出る。
「待たせたね、二人とも。さ、乗って」
「ああ。ほら、若島津」
「すみません」
 後部座席のドアを開けて促す日向にそう返し、若島津は車に乗り込む。日向が助手席に乗り込むと車はすかさず発進し、校門を抜け寮へと向かう。
「そこの袋が薬だから持っていってくれるかい、日向君」
「これか?」
 ダッシュボードの上に置かれていた袋を手にし、日向はそう確認する。
「そう。袋に書いてあると思うけど、風邪薬と解熱剤は別々に入れてもらってるから。解熱剤を飲んでも、どうしても熱が下がりきらないようなら、もう一度診て貰った方がいいだろうね。その時は僕に連絡をくれてもいいし、その袋に書いてある病院に直接電話をして来て貰うよう頼んでも構わないから。学校名と名前を言えばすぐに分かってくれる筈だよ」
「了解。で、薬を飲ませて後はとにかく休ませておけばいいんだろ?」
「そういうことだね。あとは少しでもいいから何か食べてもらう事、かな。まあ、そこら辺の事は寮母さんにも頼んであるから心配は要らないだろうけど」
 そんな前の二人の会話を聞くともなしに聞きながら、若島津はずっと反町の寝顔を見つめていた。
 とにかく、まずは反町の体調が戻るよう、それを最優先に考えよう。それからだ。
 そう彼が結論付けた頃、車は寮へと着いていた。
「じゃあ後の事は頼んだよ」
「分かってるって。先生こそわざわざ送らせちまって悪かったな。サンキュ、助かったよ」
「どういたしまして。大事な生徒達の為だからね、この位は苦にならないよ。じゃあ、お休み」
「はい、ありがとうございました」
 若島津の言葉に軽く手を振りながら答え、彼は車を発進させた。
 それを見送って、二人は寮の中へと入る。
「ああ、やっと戻ってきたか。反町、どうだ?」
 入口付近に作られている待合室の椅子に座っていた松山が、帰ってきた彼らを見つけそう声をかけてくるのに、日向が答える。
「二・三日安静にしてろだとさ。寮母のおばちゃんは?」
「先に部屋に行って用意してくれてる。行こうぜ。ああ日向、荷物半分貸せよ」
「サンキュ」
 日向の手から荷物の半分を受け取ると、松山は先に立って歩き出す。
 寮母室から一番近いその部屋に辿り着くと、松山は軽くノックをして中に入る。
「おばちゃん、病人到着したよ」
「はいはい、ご苦労様。さ、早く横にさせてあげなさいな。あと、頂いたお薬は?」
「これ。風邪薬がこっちで、これが解熱剤」
「そう。あらまあ、辛そうねやっぱり。熱はどのくらい?」
「放課後初めに計った時は八度五分だったんですけど、その後は測ってないんで今どの位かはちょっと……」
「そう。そこの一番上の引き出しに体温計が入っているから測ってくれる?その間に私は氷枕を作ってくるから。それから松山君日向君、貴方達はとりあえずその荷物を部屋に置いてらっしゃいな。それから、どっちでもいいから反町君の部屋に寄って、着替えを持ってきてあげてちょうだいね。頼んだわよ」
「承知しました。あ、若島津。ヨーグルトはそこの冷蔵庫の中、あと飲み物も入ってるから」
「……冷蔵庫まであるのか、ここ」
「自室より豪華だよな。じゃ、ちーっとばかり反町の事頼むな、若島津」
「ああ」
 松山の言葉に短くそう答え、それから腕の中の反町をベッドの上へと下ろす。
「う……ん」
 不意に反町が零した小さなその声に、若島津は一瞬動きを止める。
 しまった、起こしたか……?
 そう思ったのだが、しかし声はその一瞬のみだったようで、若島津はホッと胸を撫で下ろす。
 肩口までしっかりと毛布を掛けてやり、それから寮母に言われた通り体温計を探し出し、ベッド脇へと戻る。
 しかしそこまできて、暫し若島津は躊躇した。
 別に下心があるわけでは、勿論ない。ないのだがしかし、やはり若干の躊躇は拭い切れなかった。
 だがしかし。今のこの状況で、他人が彼に触れるのは、それ以上に耐え難い、と不意に思い至り。
 そっと、彼を起こさないよう注意を払いながら、体温計をセットした。
 微かに触れたその肌は、やはりいつもより体温が高いようで、改めて若島津は自己嫌悪に陥らずにはいられない。
 一体いつから。
 ゆっくりと、反町の額にはりついた前髪を払ってやりながら、自問する。
 一体いつから彼は自分の態度に心を痛めていたのだろうか。そして何故自分は、その事に気がつけなかったのだろう……。
 簡単な事だ。結局俺は自分の事に精一杯で、本来一番に考えなければならなかった事を考えていなかったんだ。
 考えなければならない事。
 そう、反町自身の事を……。
 彼を傷つけたくない一心で、けれど一番肝心な所へ気を回せていなかったなんて、愚かな事この上ない。
「ごめんな」
 我知らず、そう言葉が口をついて出ていた。
「う……ん………?わかしまづ……?」
 不意の声に、若島津は慌てて額にやっていた手を離し、声の主を見る。
「悪い、起こしたな」
「いや、それはいいんだけど……ここ、どこ?」
「寮だよ」
「寮……?でもここ、俺の部屋じゃ、ない?」
「ああ。俺も知らなかったんだけど、病人が出た時の為に、別に何室か部屋を取ってあるらしいんだ。そこだよ」
「ふーん……。そっか」
 反町がまだ幾分眠気が残る目のままそう呟いた時、突然ピピッという小さな電子音が響く。
「何、今の」
「体温計だよ」
「え?……あ、本当だ」
「ホラ、貸して」
「あ、うん」
 差し出された手に、反町は言われるままに体温計を乗せた。その指し示す数値に、若島津は微かに眉を顰め、それから再び毛布を反町の肩口まで引っ張り上げる。
「?若島津?」
「熱、全く下がってないんだよ。自覚あるか?」
「……あんまりないかも」
「ったく。二・三日安静にしてる事ってお達しだからな、言っておくけど」
「えーっ」
「えーじゃないだろう……。腹は減ってないか?」
「うーん……あんまり欲しくないかもしれない……」
 返ってきた案の定な答えに、若島津は小さく苦笑した。そしてベッドサイドの机の隣に置かれている、小さな冷蔵庫に手を伸ばす。
「ホラ」
 そう言って差し出されたソレに、反町は目を丸くした。
「どうしたんだ、これ?」
「熱がある内はあんまり食欲も湧かないだろうからな。こういうヤツなら食べられるだろう?」
「………わざわざ買ってきたのか?」
「松山に頼んで買って来て貰ったんだ。後であいつにも礼言っておけよ」
「ああ、うん。それは分かってるけど。あ、でも、それよりも前に言わなきゃな」
「何を」
「……迷惑掛けてごめんな、若島津」
 その言葉に、一瞬若島津は言葉を失った。
「……別に気にする事はないさ。ホラ、いいから早く食べろよ。少しでも腹に入れたら薬飲んで、それから大人しく寝てろよ。いいな?」
「うん……」
 そう素直に頷いた反町に頷き返すと、身を起こそうとする反町に手を貸すべく、若島津は手を伸ばす。
 と。熱の所為で火照ったその横顔と、肌に伝わる体温に、瞬間若島津の手が止まる。普段ない様子の彼に対し過ぎった己の感情に、若島津は胸中で己をなじる。病人相手に何を思った今自分は、と。
「 ? 」
 動きの止まった若島津の目にキョトンした反町が映り、彼は漸く我に返った。疑問符を投げかけられる前にきっちりと反町の体を起こしてやると、その背に枕を押し当て、それからヨーグルトを手渡す。
「ほら」
「あ、うん、ありがと」
 反町は素直にそう頷いて、手渡されたヨーグルトの蓋に手を掛ける。と。
「あーっいつの間にか起きてやがるしコイツはっ」
 唐突に降って沸いたその声に、反町は目を丸くし若島津は苦笑する。
「平気……なわけないか。あ、ホラ着替え。早く着替えろよ?じゃないと制服にシワよるぜ?」
「げっ、それは嫌かも。……って、もう十分シワになってる気がする」
「……だな」
 微苦笑を浮かべてそう返し、松山は着替えを手渡す。
「松山、ちょっと頼む」
「へ?」
「俺も着替えて来るから」
「ああ、そうだな」
 松山の返事に、若島津は部屋を出る。パタン、と後ろ手に戸を閉めて、それから深い深い溜息を、一つ。
「こんな時だってのに……」
 自己嫌悪に陥りそうになりながら、そう呟く。
 でも、まだ大丈夫だ。そう胸中で呟いた。
 まだ、そう自覚を出来ている内は、大丈夫だ。と。






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