|
考える、事がある。
たとえば、ここにいる理由。
自分が、そして彼が。
繋がり。
その繋がりの、理由。
絆だとか、運命だとか、そんな理由を欲しがっているのだろうか。
そんな、不確かなものを?
目に見えないものを、信じること。
信じ続けること。
その、意味。
答えが欲しくて。でも、欲しくなくて。
矛盾する希求。
そうやって。
もうずっと、同じところをグルグルと回り続けている。
「一樹?」
聞こえる、呼び声。
眠りから、穏やかに緩やかに、呼び戻すその声。
まとわりつく、心地よい気だるさから逃れるのは、本当はとても難しい。もう一度、その手の中に身を委ねてしまいたくなるのは、常だ。
それでも。その声は。
否応なく、自分を呼び戻す。それだけの強さを、備えている。どんな場面においても、変わる事なく。
それを厭う気持ちは、とうの昔に失った。いや、本当は最初から持ち合わせていなかったのかもしれないけれど。でも、それを認めるのは、なんとなく悔しい。
「一樹?」
再びの、呼びかけ。
キシッ、と。すぐそばで僅かに派生する音。そして、穏やかなくせに圧倒的な、その人の気配。ふわりと漂う、微かな、彼が身に纏うコロンの香り。
緩やかに。その手が、頬を覆う髪を梳く気配。触れる、ほんの僅かな指先の、それでも確かな温もり。
それら全てのものが、自分の傍らにあるのだという事。その空気が作り出す、紛れもない幸福の気配。
それなのに。
どうして、安心も安定も安全も、ここからは遠く感じるのだろう。
「おいこら、一樹?」
一向に起きる気配のない一樹に、再びかけられる、声。その声に、一樹はようやく重たい目蓋を持ち上げた。
未だ眠りの淵から完全には抜け切れていなのだろう、その表情。目の前の、覗き込むように置かれた健の顔に、けれどピクリとも驚くことをしない様に、小さく彼が苦笑する。
「おはよう」
そう言うと、掠れた声で、けれどもはっきりと、彼は同じ言葉を返してくる。
「晴れてるぞ」
そう言ってやると、ホント? と、ふんわりとした笑みをのせ、返ってくる。
けれど、未だ彼が完全に覚醒していないのだろう事は、一目瞭然だった。完全に目が覚めているのなら、きっと彼は大喜びでその身を跳ね上げているのだろうから。
「あんまりノンビリしてると、せっかくいい天気なのに、日が暮れるぞ」
その言葉に、ふふふ、と小さな笑みが一樹の表情を彩る。
「それもいいかも」
「一樹?」
「うっそ。せっかく休みが重なったのにそれじゃ勿体ないに決まってるでしょ」
そう言って漸く彼は身を起こす。
けれど先の言葉が決して嘘ではないことは、健からしてみれば自明の事だった。
起こされた身体を。やんわりと、けれど一樹からしてみれば、抗う事を許さない強さで再びベッドへと逆戻りさせて。
真っ直ぐに。
真上から捕らえられた視線。
「……健ちゃん…?」
掠れた声が、そう零す。
「何を考えてる?」
端的な言葉。
一樹は小さく目を見張り、そして僅かな苦笑をその頬にのせる。誤魔化そうとしても彼には、彼にだけは通用しないのは、昔からの決まり事だ。
それでも。
「何が?」
そう返してしまうのは、もう習性として身についてしまったモノだとしか言いようがない。それが解っているからだろう、健は黙したまま次の言葉を、反応を待っている。
暫しの沈黙を健は甘んじて受け入れる。
沈黙を守ろうとしているわけではない。肝心な部分で言葉にするのが苦手な彼が懸命に言葉を探しているのだと知っているから。
「わかんない」
ポツリと零れた言葉。
誤魔化しているわけでは決してない、素直な答えなのだと云う事はその表情を見れば確かな事ではあった。
けれど。
困惑と不安と様々な感情が入り交じった表情である事も、また確かだった。
「一樹?」
「わかんないんだ」
再び零れ落ちた言葉に、健はそっと、揺れる感情を宥めるかのように、一樹の頬を撫でる。
途端に潤んだ瞳が、それでも真っ直ぐに健を捉える。瞬きもせず、何かを見極めようとしているかのように。はらりと零れ落ちた涙は緩やかに一樹の頬を濡らし、健の指先をも湿らせたけれど、その事実に一樹が頓着している様子はない。
「一樹?」
促すようにそう名前を呼ぶとようやくその瞳が小さく瞬いた。
「どうして…?」
ポツリと零された言葉は健への問い掛けのようでもあり、また自分へ問い掛けている言葉のようでもあった。
「何が?」
短く返してやると、一樹は言葉を探すかのように視線を泳がせる。
「どうして…」
どうして貴方は傍に居てくれてるの。
貴方の隣でこんなに幸福なのに、なのにどうして同じほどに不安なの。
確かなものなんて何もないって知ってるのに、なのにどうしてソレを欲しがるの。
どうしてこの幸福を素直に信じられないの。
どうしてどうしてどうして。
その一言がぐるぐると繰り返されて止まらなくなる。
「一樹」
そっと。
穏やかな声が一樹の意識を外へと呼び戻す。触れる指先が、頬を濡らす涙を気付かせた。
こんな風に。
涙を拭う温もりに。そっと目を閉じながら一樹は思う。
いつからこんな風に簡単に。涙が零れるようになってしまったんだろう。
温もりに、その温もりが傍らにある事に、すっかり慣れてしまって。
失くしたら。きっと呼吸すら出来やしない。
ああだから。
信じたい筈の、いや信じている筈のモノを信じたくないのだ。
失くしてしまう前に。最初から手にしてなんていなかったのだと。失ってなんかいないのだと。そう思えるように、その為に。
それなのに同じほどに求めてしまうから。
この幸福に終わりなんてないのだと。この温もりを失う事なんてないのだと。傍らに、この失い難い幸福が永久に存在してくれる筈なのだと。
「どうして…」
気付かせちゃうの。
掠れた声が小さく小さくそう零した。
こんな矛盾。こんな希求。……こんなにも弱い自分。
気付きたくなかったのに。いや、本当は気付いていた。気付いていたけれど。
それをこんな風に。貴方の前で気付きたくはなかった。…だって気付いていないふりが出来なくなるから。もう二度と。
「一樹」
穏やかな声とは裏腹な、強い響き。それと共に強い力でその腕の中に抱き込まれる。そして。
何が不安だ?
優しい声音がそう尋ねる。
途端に溢れ出す涙。
泣きたいわけじゃないのに止まらないそれに、一樹はどうしたらいいのか分からなくて、そのままその背に縋り付く。
優しい手が、ゆっくりと一樹の背を撫でる。
まるで泣きじゃくるちっちゃい子供相手みたいだ、そう思って、でも今の自分はまさにそんな感じだし、とどこか冷静な部分がそう返す。
「ちゃんと居るだろう?」
俺は此処に。
不意に囁かれた言葉に一樹は泣き濡れた瞳のまま彼を見上げた。
柔らかく見つめてくる瞳。それだけで、ひどく満たされた気持ちになれる、それは紛れも無い事実。
「……ずっと…?」
「お前が嫌だって言ってもな」
巣喰う不安を見透かすように、返された言葉に。
一樹は泣き笑いの表情でその背に縋り付く。
「知らないから、そんな事言って」
一生言わないよオレ、そんなコト。そう呟くように囁けば、なら何も問題ないって事だ、と返ってくる。
だから大丈夫、と。そう告げるかのように、抱きしめる腕に力が込められて。
ああもうどうして、と。いっそ泣き出したい思いで、一樹はその腕に身を委ねる。
何も言わないのに、全て伝わるのだろう。
だからこそ。
きっと、抱えたこの不安も戸惑いもなにもかも、消える事はないのだろう。
誰よりも、いっそ自分よりも自分を理解し、導いてくれる人。そんな稀有な存在が他にあるはずもない。
だからこそ失う事への恐れは消えはしない。
それでも。この腕の温もりがあれば。恐いものなんて何もない。
そう信じればいい。
恐怖も何もかも、この幸福が根底にあるからこそなのだと知ってさえいればいい。
不安なのだと手を伸ばせは、応えてくれる腕があるのだから。
「ごめんね」
「ん?」
「……なんでもない」
きっと解ってるんだろうけど、でもそう答えて唯その胸に頬を埋める。
こんなに幸せを貰っているのに、不安になってばっかりで。
それでも自分には貴方しかいないから。だからどうか。
ずっと側にいて。
不安も恐れも、幸福も永久の愛も。
貴方以外の誰にも与えられる人はいないから。
「大好き」
そっと呟けば極上の笑みと、全てを包み込む優しいキスが降ってきて。
たとえ全てが遠く見えても不安でも。
貴方という存在が、ただ1つの、答え。
|