キシ、と僅かに響いた、ベッドの軋む音に、一樹の意識はまどろみの中から浮上した。
「…………ん……」
眠りから完全に抜け切れていない一樹の零した小さな声に、小さく苦笑する声がする。
え?
未だに覚め切らない意識の中、それでも一樹の意識はその声に反応した。
しかし、誰の物と一樹が理解するよりも早く、柔らかく頬に触れる感触と、耳に馴染む声が一樹を包む。
「幾ら暖房が効いてるからって毛布も被らないで……。風邪引くぞ」
「……………なん、で?」
寝起きの所為だけではない、掠れた声で、一樹は呆然と呟いた。
何で、居るの?
そう訊くよりも早く、頬にキスが落とされる。
「ただいま」
「あ、うん、お帰り」
未だ呆然とした面持ちで、けれど彼の言葉に、咄嗟にそう返した後に。
「じゃ、なくって!」
漸く思考が正常に働き始めたのか、一樹はそう声を上げる。
「ん?」
「何で、居るんだよ!」
「何でもなにも、自分の部屋だし、此処は俺のベッドだと思うんだけど?」
そう返されて、一樹は我に返る。
そうだった!
その上。未だに自分の腕はシッカリと彼の枕を抱き締めたままだ、という事にも思い至り。一樹は慌てて起き上がろうとした。
の、だが。
思いのほか強い力で、健の腕がそれを遮った。
「……………泣いてたのか?」
「なッ誰がッ?!」
「お前が」
そう言って、健の唇が一樹の頬を辿る。その行動に、漸く一樹は自分の頬が濡れていた事に気がついた。
だからと言って、はいそうです、等と頷ける筈もない。大体にして本人に泣いていた自覚はからっきし無かったのだから、尚更だ。
「泣いてない!」
そう声を荒げ、一樹は自分を見下ろしている健を睨み付ける。
「それよりも、何で居るんだよッ」
「何でって、聞いてなかったから」
「は?」
「やっぱりお前に言って貰わなきゃ意味ないし」
「何が」
「…………かなり周囲に非難されながら、それでも今日中に戻って来たんだけどな」
「……………………バッカじゃないの?」
一樹は漸くの思いで、そう返す。その言葉に、けれど健は穏やかに微笑むだけで、一樹はそれ以上の言葉を繋げなくなる。
「……………バッカじゃないの?」
暫くの沈黙の後、漸くの思いで絞り出せたのは、またしてもその一言。同じその言葉に、今度は小さく苦笑しながら、健は再び一樹の頬に唇を寄せる。
「言ってくれないのか?」
「…………普通強請ったりしないんじゃない?」
呆れた風にそう零しながら。
けれど一樹はそのまま健の首に縋りつく。当たり前の様に彼の腕が自分を抱きとめた事に、僅かに悔しさなんて物を感じながら、それでもそれ以上に大きな安堵感に満たされながら、一樹はその肩口に頬を押し付ける。
それから、僅かに聞き取れる程の声で、それでも大事に、一語一語噛み締める様に、その言葉を告げた。
「誕生日、おめでとう」
と。
その一言に、健の顔が綻ぶ。
「ありがとう」
健のその言葉に一樹は小さく頷き、それから健の目を真正面からとらえ更に告げる。
「うん、オレも、ありがとう」
「え?」
予想外の一樹の言葉に健はそう返し、腕の中の彼を見つめる。
一樹は小さく微笑んで、再び健の肩口に頬を押し付けながら答える。
「生まれてきてくれて、ありがとう」
生まれてきてくれて、ありがとう。出会ってくれて、ありがとう。
………好きになってくれて、ありがとう。
いつにない一樹のその言葉に、健は驚きに目を丸くしながら、それでも告げられた一言を素直に喜んだ。
「お互い様だよ」
その言葉に、一樹は再び微笑んで、それから不意に、いつもの悪戯っ子の瞳をして健の顔を覗き込む。
「ねえ、誕生日プレゼント何がいい?」
「いきなりだな」
「今日も、もう終わるよ。誕生日プレゼントなんだから、今日中にあげられる物じゃなきゃ渡せないよ?」
そう言って、クスクスと笑いながら、一樹は健の唇に自分のそれを触れさせる。暗に示されたその『プレゼント』の意図に気付き健は苦笑する。
「そうだな、じゃあ一つ」
「なに?」
「……………お前の、我侭を一つ」
「え?」
想定外の健の言葉に、一樹は目を丸くした。
「一樹の、本気で本音の我侭を、一つ」
「………わがまま?」
唖然と聞き返され、健は小さく苦笑した。
「……………日向さん?」
昨夜の日向との会話を不意に思い起こし、一樹は零す。
「何が?」
「………な、わけ、ないよな。そんな時間なかっただろうし」
でも、はっきり言ってタイミングが良すぎる。昨日の今日で、その上このタイミングで、彼の口から零れた言葉がソレだなんて。
「一樹?」
「……………犯人、日向さん?」
「意味が解らないんだけど?」
そう言いながらも微笑む健に、一樹は苦笑した。
解らないと言いながら、本当はきっと理解しているのだろう、と判断する。一体どんなタイミングで話をしたのか分からないけれど、きっと日向がコッソリと昨晩の会話を告げたのだろう。場合によってはあの後にでも電話したのかもしれない。
日向さんのお節介ッ、等と内心で呟きながら、それでも同時に、感謝しなきゃいけないのかな、とも呟く。
きっと、こんな事態にでも陥らなければ、自分にはその垣根は越せなかったに違いないから。
「………知らないからね」
「何が?」
「後で後悔しても知らないよ、って言ってるの。言っとくけどオレ、本当は凄い我侭だよ?我侭で、欲張りだからね。一個でなんて終わらないかもしれないよ?良いの?」
そんな風に言いながら。それでも、その言葉が僅かに震えているのを、勿論健が気付かないわけもない。憎まれ口に聞こえるソレが、けれど一樹にとってはきっと、膨大な勇気を振り絞っての言葉なのだと、彼にはよく解っていた。
伊達に、ミステリアスだとか難解だとか謎だらけだとか、そんな風に評される事の多い、反町一樹の恋人をしてきた訳じゃない。些細な表情の変化ですら、健にとっては如実に表された彼の意思表示なのだから。
「構わないよ。お前なら」
「………………知らない、からね。そんな風に言い切っちゃって」
そう言いながら。軽く睨み付けてくる恋人を、健は真っ直ぐに見返し、抱き寄せる。その肩口にしばらく頬を押し付けていた一樹が、小さく身じろぐのに、健は抱き締めた腕の力を緩め、その顔を覗き込む。
俯いたその頬は、僅かに上気している。躊躇うようにしばらくその視線は周囲を彷徨っていが、『一樹?』と促すような健の声に、ようやく一樹は顔を上げた。
「……………1つだけ」
そう言って、僅かに潤んだ瞳が、健の視線を捉える。
「今日の日を、オレに頂戴。これから先、ずっと」
「今日を?」
「他の日は要らないから。大晦日も、元旦も要らない。バレンタインも七夕も、クリスマスも、他の特別な日は要らないから、だから、今日を、12月29日だけはオレに頂戴」
自分に特別な日は、他にないから。だからお願い、その日は、その日だけは一緒に居させて。これから先、ずっと。
きっと、自分達はこのままずっと、一緒には居られない。それが嫌なわけじゃない。悲しいわけじゃない。サッカーという道を選んで進んで行くならば、それは当然の事で、それを悲観するつもりはない。
それでも、いや、だからこそ。
何よりも特別なこの日が、欲しい。
「オレに、頂戴」
真っ直ぐに見据えてくる一樹の瞳を、捉え返し。健は一樹の言葉を受け止める。
「………良いよ」
微笑みながらそう答え、健はゆっくりと一樹を抱き寄せた。その額に口付けて、言葉を繋ぐ。
最大級の我侭は、けれど彼にとっては最大級の贈り物に違いない。
「何があっても、この先ずっと、毎年、今日は一樹の為に取っておく。だから、ちゃんと祝ってくれよ?」
「ちゃんと叶えてくれたらね」
クスクスと笑いながら、そう答え。
彼特有の、悪戯っ子の様な瞳が強請ってくるのは、甘いキス。それに応えるべく軽くその唇を啄ばむと、一樹の掠れた声が小さく告げる。
消え入りそうな程のその告白は、接吻に奪われたけれど。
それでも、その一言は健の胸に深く染み入る。
普段はめっきり素直じゃない恋人の、きっと一生に数度聞けるか否かのその一言は。今日という日に得られる贈り物の中でも、最大級のプレゼントなのだった。
───ねえ、大好きだよ?
04/02/15
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