「よいしょ、と」
 一樹はそう呟きながら、腰をおろす。
 微かな夜風が心地良い時期はとうに過ぎ、さすがに少し肌寒いけれど、それでも大きく開けた夜空を見上げることが出きる此処−屋上は魅力的だ。
 もちろん、夜中にこんなところに上がることが認められてるわけではない。
 そもそも、寮の屋上は関係者(=管理者)以外立ち入り禁止とされている。
 じゃあ今一樹がいるのは何処か、と言えば、今は使われていない旧校舎の屋上だ。
 使われていないのだから、屋上も使われていない=立ち入りが許可されているわけではない。
 そもそも現在未使用の旧校舎に近づく者も居はしない。
 しかし立地は新校舎よりもずっと寮に近い。
 持て余した夜の時間の暇つぶし的に、旧校舎に忍びこんでみたのは、寮に入ったばかりの頃だった。
 鍵がかかっているものと思っていたのだが、何故か1カ所だけ鍵が開いている場所があったのを偶然見つけてしまったのだ。その時だけかと思ったら、その後もその扉の鍵はかけられることはなく、何度目かに忍びこんでみたとき思いついて屋上に登ってみたら、更にあっさりとその扉は開かれた。
 以来、旧校舎の屋上は一樹の隠れ家のようなものになっていた。
 消灯後ふらりと屋上へと登って、なにをするでもなく、ぼーっとすることが多いけれど。
 最近はとみに、リュージと会った後に、登ることが多くなった。
 何故だろう、理由は一樹にもよく分からない。
 ……満たされて戻ってきている筈なのに、此処に座っていると自分の中がひどく空っぽのように思える。
 それでも、この時間は嫌いじゃなかった。むしろ、多分きっと、自分には必要な時間なのだろうと思うのだ。
 そんなことを思いながら、一樹は上着のポケットを探る。こっそりとリュージの上着のポケットの中から抜き出してきた1本の煙草と、ライター、それから携帯用の灰皿を取り出し、火を点けた。
「キレーなお月様」
 小さくそう呟きながら。一樹は小さく煙を吐き出すのだった。


 それから、どれくらい時間が経った頃だろうか。
「……え?」
 一樹は思わずそう声を零す。
 常に静寂に満ちたこの屋上での一時で、今までに一度も起こることのなかった、異変。
 微かに、階段を上る、足音。
「うっそ」
 一樹はそう零し、慌ててとっくに吸い終わっていた煙草を、灰皿の中に押し込んだ。
 パタパタと周囲を仰ぎつつ、こっそりと位置移動を始める。せめて、扉が開いた瞬間、真っ正面から向き合わずにすむ位置へ。
 そんなこんなをこなしつつ耳を澄ませば、空耳でもなんでもなく、足音は徐々に大きくなって迫ってくる。
 どうする、どう言い訳する……?
 言い訳を頭に巡らせながら扉を凝視してる間に、足音が扉の向こうで止まった。
 覚悟して扉が開くのを待ち構えた一樹は、けれど次の瞬間一気に緊張を解きほぐし、その場に座り込む。
「なんだも〜健ちゃんか〜。なんだも〜吃驚させないでよ〜。あ〜もう変な汗かいた〜」
「なんだじゃないだろう。なにやってるんだお前は、こんな所で」
「それはコッチの台詞だよー。なんでこんな所に来てるの、健ちゃんってば〜」
「……お前が」
「オレが?」
「何時まで経っても部屋に戻ってこないからだ」
「はい?」
「門限ギリギリに帰ってきたあげく、更に夜中に部屋を出ていくわ、その上なかなか戻ってこないわ、なんてされたら気になるだろう」
 健の言葉に、一樹は目を丸くする。
 部屋を抜け出したのを気付かれていたのも驚きだが、更に部屋に戻るかどうかを確認されていたとは、どういうことだ。さらには、此処にいることを、何故彼が知っているのか。
「なんで」
 諸々の疑問を含ませたその言葉に、彼は大きなため息を付きながら、屋上へと出てくる。
「今日が初めてじゃないだろう、お前が夜中に寮を抜け出すのは」
「あー、うん、まあそうだね」
「そんな所を目にしたら、何時ちゃんと戻ってくるのか気になるに決まってるだろう」
「えーそう?」
「少なくとも、お前の立場と、俺の立場と、俺達の関係性を考えれば、当然のことだ」
「あー……まあ、うん、そうだね」
 同じサッカー部員なのだ。部員が寮を抜け出したことが下手にバレたりしたら、確かに色々面倒そうではある。
「そんなにせずに戻ってくる時だけならまだしも、とんでもなく時間が経過してから戻ってこられたりしたら、何処でなにをしてるのかって話になるだろう」
「あーうん、まあそうだね」
「だから悪いとは思ったが、一回後をつけた」
「はい?!」
「そうしたら、旧校舎に入って行ったから、ああ成程と」
「成程って……」
「寮を抜け出してるわけじゃなかったから、まあそれなら大目にみるかと思ってたんだが」
「……だが?」
「今日はさすがに遅すぎると思ってな」
「遅すぎる? え? って今何時……」
 慌てて腕時計に目をやると、時刻は2時前。
「え? うっそ、もうそんな時間?!」
「……こんな時間になっても戻ってこなけりゃ心配になって覗きにきたくもなるだろう。旧校舎にいるだろうと当たりをつけてきてみたら、下から此処にいるお前の姿が見えたから登ってきた」
「あー……そっか。あー……うん、そっか、分かった納得」
「それだけか」
「え?」
「わざわざこんな所まで探しにこさせておいて、それだけか」
「えー……? あーまあ頼んだ訳じゃないけど、うん、そうだよね。心配かけて、ごめんなさい?」
「なんで疑問形だ」
「いや、なんとなく? うん、でもごめん。次から時間ちゃんと気にする」
「それ以前に抜け出さないって選択肢は」
「あるわけないじゃん」
「あのな……」
 きっぱりと言い切った一樹の答えに、健はそう零して盛大なため息を落とす。
「こればっかはダメー。貴重なオレちゃんのリフレッシュタイム〜」
「……………なにをそんなにため込んでるんだ」
「あ、オレがそんな殊勝な時間必要としてるわけないとでも言いたいの? しっつれーな、これでもそれなりに、それなりなのよ〜?」
「誰もそんなことは言ってない。だから、それなりにそれなりで、なにをため込んでて此処でリフレッシュしなきゃならないんだって訊いてる」
「えー? そんなの教えるわけないでしょ〜?」
 だからこそのリフレッシュタイムなわけだし。
 続けられた言葉に、健は再度ため息。
 ここで更に問いつめたところで、一樹がすんなりと吐くわけがないのは、今までの付き合いで嫌と言うほど理解している。
「……ほどほどにな」
 だから結局、そう返すしかない。
「はーい、気をつけます〜」
 返された言葉に、どこまで本気なんだか、そうは思うが口にすることは押さえた。言ったところで、うやむやに誤魔化された返事しか戻ってこないのは解りきっている。
 はぁ、ともう何度目になるか分からないため息を零したところで、うん? と疑問符が健の脳裏をよぎる。
 夜風とともに、瞬間漂った匂い。
「反町」
「ん〜?」
「お前、もしかして」
 そう呟いたかと思うと、ぐぐっと縮まった2人の距離に、一樹は思わず目を見開いて後ずさる。
「な、なに?」
「煙草の匂い」
 その一言に、一樹は目を見開く。
「吸ってたのか」
「え? いや、吸ってないよ?」
「じゃあなんでお前から煙草の匂いがするんだ」
「あー、やっぱ、する?」
「やっぱって、どういうことだ」
「今日一緒にいた人、ヘビースモーカーなんだよね〜。いつもは戻ってそっこーシャワー浴びるんだけど、今日はそのままきちゃったから。そっかー、やっぱ残るかー。今度から時間よりもシャワー優先にしなきゃなー。今日も戻ったらそっこーシャワーするね、ご指摘ありがと健ちゃん」
 躊躇いなくそう答えた一樹に、本当にお前が吸ってたんじゃないのかとの疑問符を投げかけることはできなかった。その隙を与えずに、一樹が扉に向かって歩き出したからだ。
「さ、戻ろう健ちゃん。オレだけならまだしも、2人も寮抜け出してるのバレたら大事でしょ?」
 悪びれたふうでもなくそういい置いて、校内へと入っていく一樹に、健はその日一番のため息を零しながらも、その後を追って屋上を後にするのだった。







準備中。