些かのすったもんだはあったものの、結局、十日後に一樹は光達の住居から健の住まいへと居を移すこととなった。 「なんかあったらすぐ言えよ? あと健が仕事で居ないときは、うちに来いよ?」 念押しに、うんうん大丈夫分かってます、そう言って笑う一樹に、光は半ば憮然と健を見上げる。 そりゃあ確かに、健にとって一樹が必要な存在となればいい、とは思ったけれど。そうして、一樹にとってもそうなればいいと密かに思ってはいたけれど。でもこんなにも早々に一樹を連れて行かれるのは、心外だった。 自分と状況は違うけれど、それでもきっと自分達はとてもよく似ている、そう思っている。だから、しばらくは傍にいて、一樹を思う存分甘えさせて、その心の中の澱を除いてやりたい、きっとそれは自分の務めだとそう思っていたのだ。 それでも一樹本人がそうしたいと言うのを、ダメだとは言えはしない。本当にいいのか? 大丈夫か? そう念をおす光に、大丈夫と微笑まれてしまえば、もうお手上げだ。 未だ一樹が過剰なほどの警戒心を、大人の男、に対して抱いているのは、偽りようのない事実だけれど、それでもその彼が自分でそうと選択したのなら、自分はそれを受け入れてやるしかないのだ。その代わり、何があっても絶対に自分は彼の味方なのだと懇々と諭し、そうして光は一樹の選択を受け入れたのだ。 それが分かっているのだろう、健は黙って、それでも一つ頷いた。 「でも病院の付き添いはオレの仕事だからな!」 光のその宣言に、居合わせた面々は微苦笑しながらもそれぞれ頷いたのだった。 「此処を使ってくれ」 そう言って健は部屋の扉を開く。室内灯をつければ、明らかに真新しいと思われるベッドを始めとした家具類が目に入る。 「………わざわざ買ったの」 一樹が小さく眉を顰めながらそう零す。 「ん? ああ」 健はそう言いながら、先に部屋へと入る。 「こっちのドアからも、リビングの方に繋がってる」 言いながらドアを開いて見せるが、一樹からの反応はない。 わざわざ新しく設えた家具類がお気に召さないらしい。いや、家具類に不満があるわけではないのは、分かっている。新しく設えた、ということを不満に思っているのだろう。 だが元々事務所を兼ねているため一人住まいには広い住処ではあるが、住んでいるのはあくまで健一人だったのだ。余計な家具があるわけもない。 「その内、お前が此処を出て行く時に持っていけばいい」 「え?」 「趣味に合わないというのでなければな。悪いがトイレやら風呂は一カ所しかないんでな、共用になるのは許してくれ。こっちのそのドアだ。それから、家に入って両側の部屋は俺の寝室と仕事部屋になってる」 一樹の困惑の声を聞き流し、健はそう説明をすると部屋を出てリビングへと向かう。 広々としたリビングには一人暮らしの家としては不釣り合いなカウンターキッチン、奥には日の光を燦々と招き入れるベランダへと続く大きな窓。 「さっきの部屋と、此処に置いてあるものは好きに使ってくれればいい。足りないものがあれば声をかけてくれ、揃えるから。……どうした?」 「………………普通の家、だね」 「ん?」 「事務所兼だって聞いてたから、雑居ビルみたいなところかと思ってた」 「ああ、昔はそうだったんだが、建て替えで撤去せざるを得なくなってな。あまり時間がなかったから仕方なく。まあ別に俺はどこでも、雨風凌げてそれなりのスペースがあれば拘りはなかったし、セキュリティもしっかりしてるわりに割安で出てたから、まあいい買い物だったといえばそうかもしれないな」 健はそう言いながらキッチンへと向かう。 「何か飲むか?」 「要らない」 「そうか。じゃあもう今日は休むといい。なんだかんだ疲れただろう。待ってろ、今、湯を溜めてくる」 言って風呂場へと向かう健を、一樹がゆっくりとついてくる。 「どうした?」 「使い方、教えて」 「え?」 「覚えとかなきゃ、あんた仕事で居ない時もあるんだろ」 「その時は日向さんのところだろう」 「そんなたびたびお邪魔虫出来ないよ。それに、そうじゃなかったとしても、あんたが日中留守の時に使いたくなったら困る」 一樹の言葉に健はなるほどと頷いて、パネル操作を説明する。 「………溜まったら入って休むといい」 「家主差し置いて一番風呂?」 「別にそんなこと気にしないさ。それに俺はやることが残ってるんでな」 「そう。じゃあ遠慮なく」 一樹はそう頷いて、部屋にいる、そう言い残し部屋へと戻って行く。それを見送ってから、健はキッチンへと戻って冷蔵庫の中から缶麦酒を取り出すと口をつけた。 普通に何気なく会話をしているけれど、それでも一樹の仕草は一定の緊張感を常に漂わせている。 「まあ、仕方ないか……」 一足飛びにどうなるものでもない。せめて不必要な緊張を強いることがないように、今はまだそれくらいの距離感が妥当なのだろう。 そう結論付けた健は、珍しくもリビングで資料を広げる。普段は仕事に関することは、いわゆる仕事部屋でしているが、今日は例外だ。せめて一樹が休むまで、目の届く範囲に彼を置いておきたい。たとえ彼が自分に心を開いていないのだとしても、これは自分に課せられた義務だろう。 「…………なに、してるの」 その声に見やれば、廊下からのドアを開けた一樹が、タオルを片手に立っていた。 「言っただろ? やることが残ってるって」 「……仕事部屋、別にあるって言ってなかった」 「資料に目を通すだけぐらいなら何処ででも出来るからな」 健はそう言って立ち上がるとキッチンへと向かい、水を汲んで一樹に手渡す。 「………ありがと」 一樹は瞬間躊躇ったものの、そう言ってグラスを受け取った。 「俺はもうしばらく此処で仕事するけど、気になるようだったら言ってくれ。向こうに移るから」 「……別に、平気」 「そうか? ああ、飲んだか?」 そう言って手を差し出せば、やはり躊躇った後、一樹はグラスを差し出した。 「じゃあな、お休み」 「………………お休みなさい」 一樹はそう返すと、廊下側のドアから部屋へと入って行く。 それを見送り、健は再びソファへと腰を下ろし、資料に目を通す。通しながら、しばらくは、と胸中で呟く。 しばらくは遠出が必要な仕事は請負不可だな。まあもともと、最近オーバーワーク気味だったんだから、丁度良かったと思えばいいか。 そう考えながら、目を通し終えた資料をローテーブルの上へと投げ置いた。 焦るべきではない、少しずつ、だ。そう思いながら、一樹の部屋を見やる。 それでも、なるべく傍に。そう思う。 彼のために? いや違うな。 次いでそう考えながら健は苦笑する。明らかにそれは自己満足……自分のためだ。それはもう健の中で、偽りようのない事実だった。 いや、自分の中でそれはもう偽る必要のないことだった。 何を求めるつもりもない。ただその傍で、いつか。 いつか彼のその顔が、偽りのない笑顔に彩られる、その瞬間を見届けられれば、それでいい。 そう、思っていた。 ぼすぼすぼす、と些か乱暴な、けれど間の抜けた音に健は目を覚ます。ぼすぼすなどという音がするのは、健の寝室が和室であって部屋の入り口が襖な所為だ。 なんだ? そう思ったのは一瞬、ああそうだ今この家には自分だけではないのだと思い出す。と、いうことは音の発信源は一樹だということだ。 健は欠伸を噛み殺しながら、襖を開ける。 「おはよう」 どうした、そう続けようとした言葉は、一樹の剣呑な声に遮られる。 「なに、あの冷蔵庫の中身!」 「は?」 「は、じゃないよ。なに、あれ。なんなの、あれ」 「ん?」 「だから、なんであんななにも入ってないの?! なんなのあれ!」 ああ、とようやく健は合点がいく。 「あんた、どんな生活してんの?!」 一樹のその剣幕に、健は小さく苦笑する。 道理で、仁王立ちしたまま一樹はそう胸中で呟く。 道理で昨日の帰りには、なんの迷いもなく外食して帰った筈だ。いや、それはいい、そこまではいい、でもそのまま此処に戻ってきたのはどういう了見だ! 「ずいぶん早起きだったんだな」 「はぁ?!」 と、的外れな言葉が返ってきて、一樹はそう声を荒らげる。 なんで今そんな話になるんだ! 「起きたら食いに出ようと思ってたんだが、まさか俺の方が遅くなるとはなぁ」 「そういう問題?! っていうか食べにって朝から外食?! なに考えてんの?!」 「なにって……」 「なに、もしかして三食外食とか言うつもり?!」 もしかしてもなにも、まさにそれが健の通常だったため、健は返す言葉がない。 「………………なに、その沈黙」 一樹は険しい目のまま健を睨みつける。 「ああ、いや……」 「車」 「え?」 「車、出して」 「ああ、そうだな、なにが食べたい」 「ちっがう!」 「え?」 「なんで朝からわざわざ外食なのバカじゃないのホントなに考えてんの?!」 一樹のその言葉に健はただただ目を丸くする。そんなに怒られなければならないことなのかそれが、というのが正直なところだった。 「少し行ったところにスーパーあったでしょ?! そこ!」 「え?」 「そこに連れてって」 「え、いや」 「いいから早く! それともオレにあそこまで歩いて行けっていうの」 そんなことをさせられるはずがない。仰々しいギプスは外れたとはいえ、それでもまだ一樹の足は完治していないのだ。させるつもりは勿論ないが、そんなことをされた日には光や岬になにを言われるか分かったもんじゃない。 健は急いで身支度を整えると車のキーを手に取った。声をかければ、リビングから一樹がメモを片手に出てくる。 車に乗り込んだところで、いや待てよ、とようやく健は思いつく。 「この時間に開いて」 「開いてるよ。早朝から営業って書いてただろ、知らないの」 冷静な声に遮られ、健はそれ以上言うことはせず、大人しく車をスタートさせた。 辿り着けばそこには確かに早朝営業の文字が大きく書かれた看板。昨日の帰り道に、一樹がそれをしっかりと確認していたことに、健は驚かずにはいられない。 そんな健を余所に、一樹は店内用の大きなカートをとり、店の中へと入っていく。慌ててその後を追って、とりあえず健はその手からカートを請け負った。一樹はチラリと健を見やるとカートを健に預け、スタスタと店の奥へと入っていく。ざっと店内を見渡したあとは、その足取りに迷いはない。 手に取ってどちらが良いかの吟味はするが、手に取るものを迷う素振りは全くない。 「これ」 「え?」 「とりあえず5キロの一つ取って」 指し示されたのは米の入った袋。なるほど確かに彼の手には余るだろう。健は言われるままに一袋を持ち上げると、カートに乗せる。 野菜、果物、肉に卵に、パン。そうして次に調味料。 さすがにそれは家にあったはず、そう言えば、冷たい視線が返ってくる。 「どれだけあったって、とうの昔に使用期限切れてるのばっかで、あるって言える?」 その言葉に、健は口を出すことを放棄した。なるほど、一樹は健が身支度を整える間に、家にあるそれらを全て確認していたということか、と納得する。 「ねえ」 「ん?」 「水って、浄水器だったんだよね」 「ああ」 「……じゃあ飲み物はいいか……あ、違う、アレ」 「あれ?」 「取ってくるから並んでて」 「え?」 「レジ」 他になにがあるのとでもいうべき一瞥をくれて、一樹はそのまま健を残し、陳列棚の向こうに消えて行く。健は小さく苦笑しながらも、言われたとおりにレジへと並んだ。 戻ってきた一樹の手には、何やら多少大ぶりな袋。覗き込めば。 「茶葉?」 「そうだよ。だって、あんたのところ、酒と珈琲しかなかったじゃないか」 無駄に大容量な冷蔵庫の中にあったのは、麦酒と数種のつまみ、あとは一体いつ買ったのか知れない卵が数個。棚の中には酒の瓶と珈琲豆、とっくに期限切れの調味料と、そうしてこちらにもつまみ。そんな状態にも関わらず調理器具だけはなぜか一揃い、それも使いやすそうなものばかり。一樹にしてみれば訳が分からない有様だ。 相当な量となった荷物を、健の手が車に積み込んでいく。これは一往復じゃ済まないな、そう思う。 案の定、荷物は一度で運びきれる量ではなかった。 「ああ、いいよ俺が持っていくから」 荷物の一つを手に取った一樹に、健がそう告げる。 「別に、これくらい持って上がれる」 「いいから。きちんと治るまでは禁止」 「なにそれ。やだよ、これは持ってあがるから」 「なんで」 「すぐに使うの」 「ああ……」 一樹の言葉に、健はそう頷く。なるほど、袋に入れる時点で、選りすぐっていたのか。 ひょいっとその袋を取り上げ中身を確認する。 「ちょっと!」 その声を余所に、重たいものがさほど含まれていないことを確認し、健は一樹の手に袋を戻す。 「他に先に必要なものは?」 「え? あ、その袋」 「これだけでいいのか?」 「とりあえずは」 「そうか」 返答に、言われた袋を含む数袋と米を担ぎ上げ、健は一樹を促すとエレベータへと向かう。一樹の細い指が、迷うことなく階を指定するのを、なんともいえない感覚で見やる。 「…………なに」 「ああ、いや、別に」 そう返せば、それ以上を尋ねてくることはない。 目的階でエレベータが止まると、一樹はスタスタと部屋へと向かって歩く。 なんとも不思議な光景だ。まだ一日も経っていないのに、まるでそこに馴染んでいるかのような後ろ姿。 いや、違うな。ただ自分がそう思いたいだけだろう。一樹にしてみれば、自分が留まることになる場所を把握するのは普通のことなのだから。 後を追い玄関先へと辿り着けば、一樹がこちらを見やる。 「ん?」 「……鍵」 「あ? ああ、そうか」 そう言えばまだ家の鍵を一樹には渡していないのだった。荷物を降ろそうとした健の視線の先で、不意に一樹が一歩こちらに近寄った。 なんだと思う間もなく、一樹の手が健の方へと延び。 「……これ?」 後ろポケットへと突っ込んでいたキーケースを抜き出して、そう尋ねる。 「あ、ああ」 返事に、一樹はそのままキーを使い鍵を開けると、扉を大きく開きこちらを見上げる。 「……入らないの」 「え? あ、ああ、ありがとう」 自分のために開けられたのだとようやく理解し、健はそう言って家の中へと入る。 玄関口に荷物を置きかけたけれど、思い直して一先ずリビングへと向かう。うっかり置いたまま車に戻れば、一樹が荷物を中に運び込もうとしそうだと考えたからだ。 後に続いてリビングへと入った一樹は、黙ってキーケースを差し出した。 細い手首に、つい目が行ってしまう。細い指、細い手首、細い……その体躯。 「……なに」 「いや」 そう返せば、無言で掌の中にケースを落とし、くるりと背が向けられる。そのまま一樹は袋の中身を冷蔵庫の中へと収め始めた。 健は小さく笑うと、残りの荷物を取りに再び車へと戻る。 両手いっぱいの荷物を手に部屋に戻れば、漂う香りに思わず目を細めた。 すぐ使うの言葉通り、一樹はすでにキッチンへと向かい合っていた。とんとん、ことこと、耳慣れない、けれど心地の良い音。 「………なに」 荷物を手にしたまま入り口で立ち止まった健に、一樹は小さく眉を顰めながらそう尋ねる。 「……いや、慣れてるなと思って」 「なにが」 「料理」 「べつに」 普通のことだから。 その言葉に怪訝そうな顔をした健に、一樹はけれど応えることはせず、手元に注意を戻す。 普通のことではない筈だ。別邸とはいえあれだけの規模の館、家付きの使用人も居た筈だ、勿論お抱えのシェフだって。 けれど一樹のその手際の良さは、確かに普段から料理をしていたのだろうからこそのものだろう。 「母さんが……」 不意に一樹がそう零す。 「母さんが自分で料理してたから、自然とするようになっただけ」 言いながら、ことん、と一皿。 「母さんが死んだ時にシェフを入れようとされたけど、断った。どうせ食べるのは自分だけなんだ、だったら気兼ねせず自分の食べたいもの食べる方が早いし楽だし無駄もない」 ことん、とまた一皿。 「………突っ立ってるぐらいなら、持って行って」 「え?」 「パン、一枚? 二枚? バターでいい?」 「え、あ、ああじゃあ二枚」 「ん」 一樹はそう返すと、くるりと背を向ける。 健は言われたままに皿を手に取り、ローテーブルへと運ぶ。戻れば、量が少なめの皿が置かれていた。一樹の分なのだろう。それを手に運ぼうとすれば、制止の声。 「なんでそれまで持ってくの、あれじゃ足りないわけ」 「持って行けって言っただろ」 「あんたのを持って行けって言ったの、それはオレの」 「分かってる」 「じゃあ」 「一緒に食べないのか?」 「え?」 「わざわざ別に食べる必要はないだろ。……焦げるぞ」 「え? あ!」 健の指摘に一樹は慌ててトースターに向き直る。その隙に健は皿を手に、テーブルへ。 トンッとトーストの乗った皿が目の間に置かれ、広げていた新聞から顔を上げれば、眉を顰めた一樹の姿。 「ああ、ありがとう」 言えばフイと顔を逸らされた。 「冷めるぞ、勿体無い」 そう言えば、目を丸くして振り返られて、小さく笑う。 「ほら」 その言葉に、一樹は躊躇うように眉を寄せる。それを気にせず、健は新聞を畳み。 「いただきます」 そう言って手を合わせると、ようやく、観念したとでもいえばいいのか、そんな雰囲気で一樹はテーブルを挟んだ向かいにペタリと座り込む。 「動かすか?」 「え?」 左隣にある一人掛けのソファを指させば、一樹は小さく頭を振った。 「そうか」 健はそう言って頷くと、ああそういえば珈琲、そう思い付き立ち上がろうとして、けれども思いとどまる。 すでにコップが用意されていたからだ。けれど中身は、愛すべき琥珀色ではなく、鮮やかなオレンジ。 「野菜ジュース」 視線に気付き、一樹がそう告げる。ジューサーあったから。 「どうしても飲みたいなら、食べ終わってからにすれば」 珈琲なんて一日幾らでも飲むんだろ、その言葉に健は僅かに目を丸くする。 「カフェイン中毒」 「え?」 「あんな濃い珈琲飲む人が言えることでもないとは思うけど」 その言葉で、誰が何を言ったのかを理解する。 そうそれは、光達との生活の中で小次郎が言い放った言葉だった。 とんでもなく濃い珈琲に目を丸くした一樹に、俺よりもよっぽど奴の方がカフェイン中毒だ、と小次郎は呆れたようにそう言ったのだ。 「飲むなとは言わないけど、朝の一杯くらい他のものにしても良いんじゃない」 そう言い置いて、一樹は自分のコップに手を伸ばす。それから健に用意されたものに比べれば明らかに量の少ないそれを食べ終わると、立ち上がる。少ない分量に口を出しかけて、けれど結局健は口をつぐんだ。一樹の食の細さは、光や岬からすでに聞き及んでいるのだ、余計な口出しはしない方がいいだろう。 「今日は」 「ん?」 「出掛けるの」 「え?」 「仕事。便利屋? みたいなもんなんでしょ」 「あ、ああ、まあ」 「だから、それで出掛けるのかって訊いてんの」 「ああ、いや、特に出る予定はない」 「そう。食べちゃいけないもの、あるの」 「え?」 「食べちゃいけないもの。好き嫌いとかじゃなくて、アレルギーとか」 「ああ、いや、そういうのはないが」 「そう」 「……もしかして」 「なに」 「…………三食作るつもりか?」 「他にどうするの」 「いや、どうするって」 「オレ、外食キライだから」 きっぱりと言い切る一樹に、健は小さく目を見張る。 「あんたが作んないなら、自分で作るしかないじゃない。作るんだったら一人分も二人分も変わんないよ。……食べ終わったら、持って来て」 言い置いて一樹は流しへと皿を運ぶと、残りの荷物を解きにかかっている。 「食べたいものあるなら、それは聞くけど?」 「ああ、いや……任せる」 「そう」 冷蔵庫と作業台の前を行き来する華奢な背中が短くそう返すのを、健はなんとも表現のしようがない思いを抱えながら、ただただ見つめる他にないのだった。 「で?」 「はい?」 小次郎のその言葉に、健は短くそう返す。 所は日向邸の広々としたリビング。目の前のテーブルには、広げられた資料。 「はい、じゃねぇよ」 「そうは言いますけど、その短い問いだけでどう答えろと?」 「分かってって言ってんじゃねぇよ」 小次郎の言葉に、健は小さく肩をすくめることで答えた。 確かにまあ、彼が何を言いたいのか分からなかったわけではないのだけれど。 「まあ、拙いってことじゃなぇんだろうけど?」 小次郎の言葉に、曖昧な笑み。 「なあ、もうすぐ出来るけど、そっちは〜?」 と、リビングに顔を覗かせた光はエプロン姿。 「ああ、いつでも一段落可能だ」 「そ? だったら、なぁあと? ……あと十分? 十分したらコッチな」 「ああ、分かった」 小次郎はそう答え、それからパタパタと戻って行く後ろ姿を微笑ましく見送った。エプロン姿の光だなんて、そんなものを拝めるとは思ってもいなかったなしかし、そんなことを考えながら。 光が去って行った先はキッチン。光に請われ、今そこでは一樹がおそらく料理の最後の仕上げを行っているのだろう。いや、光への料理指南なのだから、仕上げ一歩手前といったところだろうか。 健が仕事で留守の日、病院への付き添い前に振舞われた一樹の料理にいたく感銘を受けたらしい光は、それから度々一樹の料理を食べに付き添い日以外でも訪れ、そうして最近は光に頼んで料理を覚えようとしているのだ。 普段の生活において、それまで料理は小次郎の仕事だった。とりたててどちらから言い出したことではなく、それまでも自分で料理を行っていた小次郎が自然とその役目を担っていて、元々料理などほとんどしなかった光は、大人しく小次郎の料理に舌鼓を打っていたのだ。 がしかし、料理をする一樹に触発され、そして恐らくは自分でもちゃんと料理をして小次郎の役に立ちたいと思っていたのだろう、光はすこぶる真剣に一樹の教えに耳を傾けていた。 「オレに教わるよりも、日向さんに教わればいいのに」 オレのは普通の料理だよ、日向さんの料理ってば殆どプロ並みじゃない。 そう言ってみたけれど光は頑なに、一樹に教わることを良しとしていた。ので、最近は一樹も気にすることなく、光のリクエストに従って、光の出来そうな範囲からメニューを決めては先生役だ。 「しかし意外だったよな」 「え?」 「自分で料理してるとは思ってなかった」 光達の元に居た期間に、一樹が料理をすることはなかったのだ。いや確かに、小次郎が日々の食事の準備をきっちりしていた所為なのだろうけれど。そもそも、箕沼の人間として暮らしていた一樹が自分でなどということは、健同様小次郎にとっても想像外だったのだ。 「まあお前の生活考えりゃ、良い誤算だったけどな」 小次郎の言葉に、健は苦笑するしかない。 「おいこらー、もう十分経つー!」 「ああ、悪い、今行く」 光の呼び声に小次郎はそう答え立ち上がると、健を促してダイニングへと向かう。 「へぇ、良い匂いじゃないか」 「ったり前だろ!」 小次郎の言葉に光はそう言い放つ。 「だって一樹が先生なんだし!」 自分の腕ではなく、教えている一樹の腕を威張る光に、ご飯をよそっていた一樹が小さく笑う。その様を視界に留め、それだけでもこうやって此処に来る甲斐があるものだ、と健は胸中で呟く。 小次郎が、どうなのだという意味を込めて零した『で?』という問いに対する答えが、その呟きに凝縮されているのかもしれない、健はそう思う。 健が仕事で出かける時以外は、三食必ず顔を合わせる。食材の買い出しに二人で赴くこともする。……けれど、それだけだ。 必要最小限の言葉を交わすだけ。初日の朝のように、一樹が感情を表した声を出すこともない。淡々としたものだ。 それはすなわち、彼が未だに自分に対して心を開いてはいない、そういうことだ。 それで構わない、そうは思う。思ってはいるが、けれど自分に向けられたものではないとはいえ、彼の笑みを見られるのは、殊の外健の気分を浮上させる。 つまりはそれだけ、彼の笑顔を自分が欲しているということだ。 共に過ごす時間が増えるほど。……贅沢になってきているのかもしれない。そう不意に思い至り、健は胸中で苦笑する。 ただ傍で、彼のその顔が笑顔で彩られるのを見届けたい、確かにそう思っていたし、今でもそれは思っている。 けれど。 それと同時に、その笑みが自分に向けられるものであればどれだけいいか、そう思う自分を偽りようがないことも事実なのだった。 |
※以降準備中※