そもそも。
 なんでオレはこんな男をパートナーに選んじまったのか。
 彼―松山光はそう考えながらも、手にしたシステム手帳をめくる。世の中デジタル化が甚だしいが、どうにもそれに馴染めなくて、未だ基本は手書きが信条の光なのだった。
 その視界の先には、件の男の姿。
 携帯電話を片手に、なにやら大いに揉めているらしいが、そんなことは奴に限っては日常茶飯事だ。妥協を許さないその姿は確かに尊敬すべき点ではあるが、同時に厄介でもある。
 まあ、自分に降りかからない場所では、大いにやってくれたらいい。そう、降りかからないのであれば、だ。
 だがしかし。
 今現状で言えば、それは大いに自分の身に降りかかってくれている。
 これ以上ずれこんだら、後のスケジュール調整がどんだけ面倒なことになるか分かってんのか、コノヤロウ!!
 その思いと共に、光は大きく息を吸う。
 そろそろ実力行使の強制終了に流れを持って行っても許される頃合いだろう。
 と、それを見越したかのように。
 チラリとこちらを見遣る視線。
 んだよ、この野郎。
 そう思いながら睨み返してやると、片手をあげて。一言二言告げたあと、ようやく会話は終了したようだった。
「おっせえ」
「悪かったよ」
 全然悪かったと思ってる風には見えねぇんだよ。そう思うが、それは何とか飲み込んだ。不要な遣り取りで貴重な時間をつぶすわけにはいかない。
「ミーティング。もう全員が席で待ってる」
 そう告げれば、分かったと答えて部屋を出て行く後姿に、小さく溜め息を零しながら、光もその後を追った。
 なんとなれば、相手は今をトキメク若き会社経営、知名度・人気共にトップを走るデザイナー、その他諸々の肩書をもつ男―日向小次郎その人なのだからして。
 多忙に文句を言っても始まらない。
 文句を言うなら、そんな男のパートナーと云う立場を選んでしまった自分に言うしか、ないのだから。


 そもそもの出会いは、学生時代。知り合いに頼まれて始めたアルバイト。普段まったくもって興味の対象ではなかった所謂ファッション業界。雑用の手伝いとして入ったそこに。
 奴―小次郎は居た。
 あとで聞いたところによると、既にその頃には人気トップクラスのモデルだったらしいのだが、そんなこと光が知る筈もない。
 目つきの鋭い、やたらガタイも態度もデカい男。よくも悪くも、それが第一印象だ。
 なので、勿論小次郎に対する対応も、その印象に準じたもの―つまりは、かなり大雑把だったわけだ。
 が、それが何故だか逆に好印象に繋がったらしい。
 始めは何故だか食事に誘われた。それもトップモデルには似つかわしくないと思われるに違いない、ふっつーの、チェーン展開しているような居酒屋や、常連はおっさん達な焼鳥屋。いやだからこそ、光も頷いたわけなのだが。
 そこから何故だか映画を見に行ったり買い物に行ったりドライブしたりと、普通の友達付き合い? のような時間を過ごしていたのだが。
 ある日いきなり欠けたスタッフの穴埋め助っ人として請われ、何故か撮影現場に。そして一度のそれが、何故かズルズルと引きずられるままに日常化し、いつの間にか業界内曰くのチーム日向の一員に組み込まれていた。光本人の了解もなく、なのに暗黙の了解の上に。
 そして光が大学卒業後の進路を考えはじめたころ。
 いきなり小次郎は事務所からの独立を宣言した。自ら会社を立ち上げ社長に就任、モデル業と並行してブランドを立ち上げる、そうして。有無を言わさぬ勢いで、光を自分の片腕にすると言い出したのだ。
 ちょっと待てオレの自由意思はどこだとの反論に、小次郎はニヤリと笑んで。でも興味あるんだろ、などとのたまった。
 勢い反論したものの、確かに面白そうだと思っていた光に反撃の余地はなかった。事実を否定することは出来ない。
 ひょんなことから就職先が決まった光は、そこから一転ビジネスに関する知識を叩きこんだ――いや叩き込まれた。
 卒論に四苦八苦しているというのに、その傍ら小次郎の知人が経営する会社に放り込まれて、アルバイトという名の実地研修だ。
ざけんなバカ野郎、卒業できなくなったらどうしてくれる、そう言ってみたところで、どこ吹く風。お前なら出来るだろ? ときたもんだ。
 あまりの横暴っぷりに逆に負けず嫌いに火がついて、卒論をこなし、そしてアルバイトもこなし、そうして無事に大学卒業、今に至る。
 なぁんて言ってしまえばいとも簡単だったように思えるが、実際問題、そんな簡単なわけがない。そりゃあもう、とんでもない苦行だった。
 それでも。その後の日々は、癪だが、確かに充実しているのだ。
 卒業してすぐは、そのまま暫くバイト先で派遣社員的な形で実地研修を続行した。その間に、小次郎は事務所を辞め、そして宣言通り会社を興した。そうして満を期して小次郎の会社に入社、さまざまな課題は並んでいたが、ブランドを立ち上げる小次郎の傍らで様々な業務をこなし、実質確かに彼の片腕なのだろう。肩書は社長秘書とかいう、痒くなるものだけれど。
 事業は順風満帆、立ち上げたブランドも順調に売り上げ実績を伸ばしている今日この頃。
 ……だったのだ、つい先日までは。なのに。
 小次郎が投じた一石で、現在現場をふくめ光の周辺は大騒ぎなのだった。

『モデル業は引退する』

 たった一言。
 が、その一言が及ぼす影響を、果たしてどこまで真剣に彼が考えていたかは、甚だ謎である。


「やっとカタが付いたな」
 やれやれ、とでもいうように零した小次郎を見やり、光は眉根を寄せる。それはこっちの台詞だバカ野郎。
 こっちの心情に気付いているのか否か、小次郎は頬杖をついた姿勢で光を見遣る。
「んだよ」
「いや?」
「いや、じゃねぇよ」
「……………何だかんだで、一貫して反対しなかったのはお前だけだったなと思ってな」
「んなの、当たり前だろ」
 光の言葉に、小次郎は目を丸くした。が、続いた言葉に、苦笑するしかない。
「お前がやるって決めた以上、誰がなに言ったって無駄なんだ。反対するだけ損なのが分かってて、誰がするかってんだよ。そんな暇あったら、どうすりゃ問題なく早くことが進むかに力入れるに決まってんだろ」
 光はそう返しながら、小次郎の目の前に、いつの間に淹れたのやらな珈琲を置く。
「それに」
 と、まだ続いていた返事に、小次郎はカップに伸ばしかけた手を止めた。
「それが此処でのオレの役割だろ」
 なんせ自他共に認める優秀な日向小次郎の片腕なんだろ、オレ様は。
 その言い草に、小次郎は瞬間目を見開いて、それから小さく噴き出した。
「んだよ」
「いや、まさにその通りだと思ってな」
 そう返して、小次郎はようやくカップを持ち上げた。
「バカにしてんだろ」
「まさか」
「どーだか」
「いやいや、本当に」
「別にどーでもいいけどさ」
 光はそう言い放つと、自分も珈琲カップを手に、小次郎の正面の椅子に腰かける。
「でもさぁ」
「ん?」
「実際問題、なんで辞めるなんて言い出したんだ」
「ん?」
「ん、じゃねぇよ。モデル。別に続けても問題なかったろ。未だに十分すぎるほどのオファーきてるわけだし、別に嫌いじゃないんだろ、モデルの仕事自体は」
「ああまあな」
「じゃあだったらなおさらなんで辞めるんだよ」
 それは問い詰めるというより、単純な疑問といった声音で。小次郎は小さく笑みながら、そうだなぁと返す。
 本当は、とても簡単な理由なのだ。
 が、果たしてそれを素直に言ってしまっていいものか。
「小次郎?」
「ん?」
「…………別に答えたくないってんなら、それはそれでいーんだけどさ」
 と、ほんの少しむくれたような声音での一言に、小次郎は小さく笑う。
 時々みせる、彼のそういった子供じみた表情を、実はとても気に言っているのだとは、とても口に出せたものではないけれど。
「時間が、な」
「へ?」
「時間が、足りないと思ってな」
「時間?」
「ああ」
「……何の」
「さて、なんだろうな」
「………んだよそれ」
「その内な」
「あ?」
 曖昧なその答えに、光が眉を顰めた瞬間、コンコンとノックの音。
「ああ、しまった時間」
 光の声に、小次郎はカップ片手に立ち上がる。
「下の階か?」
「違う、上」
 即座の答えに頷いて、小次郎は扉へと向かう。
「おい、カップ」
「まだ飲んでる」
「あほか」
 小次郎の答えに、思わずそう返してしまう光なのだった。


 そんなこんなで、事実上小次郎がモデル業を引退したのはそれから半年後。その間、けっきょく辞めると決めた理由が彼の口から語られることはなかった。
 公の場では、モデル業は十分楽しんだ、今後は後進の指導や発掘に重きを置いていきたい、ブランド展開にも力を入れていきたい、などとは言っているが、果たしてそれが本心なのかといえば、嘘ではないだろうけれども全てでもないと光は思っている。
 時間が足りない、と彼は言った。確かに、それはあるのだろう。けれど、だ。
 それでも、それらは今までだってやってきているのだ。ない時間をそれでも駆使して。それを調整するのが光の仕事だったといっても良い。
「なんだかなぁ」
 確かに、うちの経営の決定権は社長である小次郎にある。彼の判断は常に的確で、そう判断するまでには熟考に熟考を重ねているのもよく分かっている。だから、それに反対するつもりはない。ないけれど。
「すっきりしねぇ」
「何がだ」
「?! 人の背後に立つなバカ!」
「別に気配を殺したつもりはないが?」
「うっせ!」
「はいはい」
 応えながら小次郎は上着を放り投げると、ドッカリと椅子に腰を下ろした。
「今日は?」
「さっきの取材で終わり」
「そうか。じゃあ行くか」
「へ? どこに?」
 今日のスケジュールは告げた通りにもう終了だ。じゃあ行くか、などという予定はないはずだ。
「あ、なんかプライベートで飲みでも入ったのか?」
「だったら言ってる」
「あーまあ確かに聞いてねぇ」
 じゃあなんだというのか。
「行くぞ」
「だからどこに」
「いいから。キー貸せ」
「へ? 車?」
「他にないだろ。行くぞ」
 そう言い置いて、投げ出していた上着を手に小次郎はさっさと部屋を出て行く。わけのわからないまま、それでも仕方なく言われるままに光もその後を追って部屋を出るのだった。


 普段とは異なる窓からの景色に、なんだか酷く落ち着かない。光はなんとも居心地の悪い心境で、それでも外の景色に目をやった。普段は小次郎が座っている助手席に今は自分が座っていて、そして普段は自分の定位置であるそこに、小次郎が座っている。
「…………変な感じ」
「ん?」
「べっつにー」
 ぽろりと零れた言葉に返ってきた声に、そう返して誤魔化す。
 そもそも。不意に思う。助手席が小次郎の定位置なのも、本来あり得ないことなんだろうなぁ、と。多分、本来は後部座席に座ってるものなのではなかろうか。
 そんな風に思っている光をよそに、ステアリングを握る小次郎は何故だか上機嫌で、いっそラジオから流れている音に合わせて鼻歌まで歌いだしそうな勢いだ。
 車は、スムーズに街中を走り抜ける。車窓を流れる風景から現在地、そして目的地を推し量ろうにも、夜の街中はあまり運転しない上に慣れない助手席からの景色で、たったそれだけの差である筈なのに、イマイチ現在地を把握しきれない。
 仕方ない、と。どこに向かっているのかを把握することは諦めた。そもそも目的地が分かったからといって、小次郎の意図が見えるとも思えない。けれど。
「なぁ」
「ん?」
「いつまで走るんだ、これ」
 いーかげん、腹減ってんだけど。
 そう告げれば、意味有りげな笑み。
「んだよ」
「まあ、せいぜい空かしてればいいさ」
「あーそうですかい」
 なるほど、目的地はそういうことか。
 そう判断し、ならばもう言うことはない、と光はふて腐れ半分目を閉じる。
「それで不味かったらぶん殴るかんな」
 その答えに、小次郎が小さく笑うのに、光は反応するだけ無駄と判断し、そのまま意地で目を閉じる。
 と、ここしばらくの忙しさが祟ったか、心地よい車の振動も相まって、ついウトウトとしてしまったらしい。
「おい、起きろ。着いたぞ」
 そんな声に起こされて、光は目を瞬かせる。
「んぁ?」
「んあじゃねぇよ。着いたって言ってるんだ。寝るなら、降りてからにしろ」
「んー?」
「いいから、ほら行くぞ。寝とぼけてないでさっさと降りて付いて来い」
 その言葉に、へぇへぇと幾分眠気の抜けぬままもそう返し、車を降りる。
「?」
 駐車場……だけど地下? なんだホテルのレストランか?
 そう考える光をよそに、小次郎はスタスタと先を行き、そして見えたエレベーターのボタンを押す。そうして降りたのは……。
「あ?」
 ホテル、とはまた違う、エントランスホール。
「ええと……」
 しかし見覚えがある気がするのは、多分、なにかで此処を目にしたからだ。はたして、そのなにかはなんだったのか?
 思い出すまもなく小次郎に促され、後に続く。
 セキュリティを超え、更にその先にあったエレベーターへと乗り込むと、静かに箱が上昇を始める。
「おい、小次郎?」
 けれど疑問符に返ってくる言葉はない。ようは黙って付いて来い、そういうことなのだろう。
 けれど、だ。自分の記憶に間違いがなければ、此処はホテルではない筈だ。ホテルではなくて…………。
 と、思考を遮るようにエレベーターは上昇が止め、扉を開く。
 すたすたと箱をおり、伸びる廊下を行くその後姿を慌てて追う。
 立ち止まった扉の横には、「K.Hyuga」の文字。そして……。
 おいこら待て、どういうことだ。
 そう声を上げるまもなく扉を開き、小次郎は家──そう、此処はホテルではなくマンションだった──の中へと入って行く。
「小次郎!」
 慌てて続き、ようやく声を上げれば、なんだ、と平然と聞き返してくる声。
「なんだじゃねぇよ、なんなんだよ此処、どういうことだよッ」
 引っ越しただなんて聞いてない。それどころか、つい昨日まで、此処ではない別の──その言い方が正しいかは別として、だ──自宅に小次郎を送り届けているのだ。
「ああ、ようやく全部整ったからな」
「あ?」
「家具やらキッチンやら、オーダーメイドで揃えたからな、思いの外時間がかかった」
「あー……」
 確かに小次郎が一旦こだわって揃えようとしだしたら、やったらこだわって時間がかかりそうだ、そう思い、いやいやそうじゃなくて! と我に返る。
「じゃなくって!」
「まあ、引っ越しはぼちぼちでいいだろ。必要最小限は整えてあるからな、当面支障はない」
 こともなげにそう言い放つ小次郎に、だからそうじゃなくって! そう言い募ろうとしたが、それを遮るようにバサリっと飛んでくる何かを慌てて受け取る。それは小次郎の上着で。
「おいッ?!」
 憤慨を込めて声を上げる先で、何故か小次郎は腕まくり。
「おい?」
 怪訝そうに告げれば、ようやく彼はコチラを見やり。
「座ってろ」
「あ?」
「腹、減ってんだろ」
「あ?」
 言葉の意味を掴み損ね思わず零した声に、けれど小次郎は頓着した様子もなく。
 ドドーンと無駄に広く整ったシステムキッチンの向こうへと歩く後ろ姿に、光はただ茫然と立ち尽くす。
 ええーっと?
 つまり、なにか?
「小次郎の、手料理?」
 なんだそれ、どういうこと?
 そうは思ったところで返事が返ってくるわけでもない。
 光は潔く諸々の追及を諦めて、無駄にでかくそして座り心地の良いソファに身を沈めることを選択する。
 身を沈めながら、室内をぐるりと見渡し、そうして最終的にその視線はこの家の主が現状鎮座するキッチンへと辿り着く。
 …………ソムリエエプロンとか似合いすぎだし。いや、確かにモデル時代に見たことあるけど!
 などと思っているうちに室内には、食欲を刺激してくれる薫りが漂い始める。
「うぅっ」
 実に空腹に悪い匂いだ。
「光」
「え。あ、なに」
「何してる」
「へ?」
「こっちに座れ」
「あ?」
「もう出来る」
「あ、ああ、うん」
 そう言われ、大人しく光は立ち上がる。正直空腹を刺激されっぱなしで、いい加減限界なのだ。
 立ち上がり、ダイニングテーブルの上を見た光は目を丸くする。
「光?」
「え? ああ、いや」
 なんでもない、そう言いながら光はまたもや大人しく席に着く。着くが、机の上に並んだ料理に、半ば唖然としていた。
 なんだこれ。
 なんだこれ、ホントに。なにコイツ調理師免許でも持ってんの?
 実際問題そこまで大げさなものではないのだろうけれど、料理なんてものに縁のない、つまりは料理が苦手な光からしてみれば、えらく豪勢なそれらに驚きは隠せない。
「飲むか?」
「え?」
「ビールでもワインでも。日本酒はさすがに合わないからな、それはまた別の時にするとして。どうする?」
「…………いらねぇ」
 そんなんなくても、この一品だけで十分だろう。なんなんだ、いきなり出てくるのがビーフシチューとかって。サラダにチーズに、バゲットは多分最近の小次郎気に入りの例のパン屋のものだろう。
「いただきます」
 空腹に我慢できなくて、そう言って早速手を伸ばせば、小次郎の奴、なんだかそれだけで満面の笑みになる。何だんだ一体。
 そうは思うが、正直に言えば、そんなことに構ってられっか、こんな美味そうなもの目の前にして、が本音だ。
「……んッま」
 思わず零れた声に、目の前の顔がますます満足そうに笑む。
ちくしょう、なんか無性に悔しい。でも、美味いんだから仕方ない。空腹だったことを差っ引いても、格別に美味い。
「………要るか?」
 あっという間に空になった更に、小次郎がそう尋ねる。光は無言で皿を差し出した。その様に、小さく笑って小次郎は席を立つ。
 もぐもぐと。その後も、光は無心で、目の前の料理に舌鼓をうつ。
「ごちそうさまでした」
 そう言って手を合わせれば。
「お粗末様でした」
 想定外なそんな言葉が返ってきて目を丸くする。
「なんだ?」
「いや……」
 …………なんだこの会話。
 その心情が顔に出ていたのか、小次郎は小さく噴き出して。
「別におかしなことはないだろう。普通の食卓での会話だろう」
「しょくたく……」
 またもや想定外の言葉に、光は唖然とその単語を繰り返す。
「口に合ったのならなによりだ」
「合うも合わないも……」
「ん?」
「…………すっげえ、美味かった。悔しいけど」
「最後の一言は余計だ」
 小次郎はそう言いながらも、満足そうだ。
「………………で」
「ん?」
「そろそろ説明求めていいか」
「何の」
「分かっててとぼけんな」
 しかし小次郎は尚も小さく笑んだまま、自分からは応えようとはしない。
「………………此処、なんだよ」
「新居、だな」
「しんきょ…………」
「俺と、お前の」
「ッ!!」
 さらりと続けられた言葉に、光は言葉を詰まらせる。
 そう、確かに、部屋のいわゆる表札部分には、小次郎の名前の下に、何故か光の名前も並んでいたのだ。なんの断りもなく。
「どういうつもりだ!」
「どうもこうも、そのままだ」
「オレは聞いてねぇぞ!」
 そして承諾した覚えもない。
「まあ言ってないしな」
「そういう問題か?! だいたい、こんなとこの購入予定も聞いてねぇ!」
「まあそうだな」
「そうだなって!」
「反対されそうだろ。同棲したいからマンション移るなんぞ言ったら」
「どッ」
 同棲って!!
「なぁ光」
「ッだよ」
 急に真面目な顔しやがって!
「一緒に住んでくれないか、此処に」
「ッ!」
 至極ストレートな言葉に、再度言葉を詰まらせる。
「………………そろそろ返事を聞かせてくれてもいい頃合いだろう」
「そッ」
「俺はもう十分待ったと思うんだがな?」
 その言葉を否定することは出来なかった。
 確かに、もう随分と。
 棚上げにしていることがある。それは十分すぎるほど、自覚している。自覚しているけれど、ここ最近のドタバタもあって、お互いの間で有耶無耶になっていて、それを小次郎も許容してくれていると思っていた。いや、そう思っていたかった。
 けれど。
「返事を聞かせてくれ」
「こじろ……」
 真っ直ぐに見つめてくる瞳は、あの日と同じ。
 あの日、告げられた言葉が、脳裏でリフレインされる。
『好きだ』
 そう告げられたのは、モデル業を引退すると告げられた、その日。
 答えは急がない。納得のいくまで考えてくれればいい。
 引退宣言だけでも青天の霹靂だったのに、更に加えられた衝撃のデカさといったら、そりゃあもう半端なかった。
 けれど、引退宣言に伴う諸々の忙しさにかまけて、いや、かまけることを口実に、考えることを避けていたのは事実だ。
 答えを考えることが、怖かったのだと。今、改めて突きつけられたことで、そう理解した。
 怖い。
 …………何が?
「光」
「急がないって、言った」
「ああ」
「納得いくまで考えればいいって」
「ああ」
「だったら」
「出てるだろう?」
「ッ!!」
 断言する口調に、言葉が出ない。
「光?」
「っまえ、最悪」
「光」
「……ッからって!」
「ん?」
「こんな、マンションとかッ!」
「気に入らないか?」
「そゆ問題じゃねぇ!」
「光」
「ッまえ、ほんと」
 ズルい。
 そう思う。
 同棲だなんて、拒否しようと思えば、出来る。それは分かってる。分かってるけど。
「光」
「こんな………ほんと、ばかじゃねぇの」
「バカで結構」
 お前との時間を手に入れることが出来るなら。
 平然と続く言葉に、もう本当に言葉がない。
「言っとくけど!」
「ん?」
「引っ越しなんて、そんな簡単に出来るもんじゃねぇんだからな! それでなくてもまだまだお前の引退宣言の煽りくらった業務が山積みなんだから!」
「ああ、承知してる」
「どーだか」
 言いながら。伸ばされてきた手を拒否することが出来ない。
 取られた左手。厳かに口付けられたそこの意味。
「こじ……」
「覚悟してろ」
 もう遠慮はしねぇ。
 告げられた一言に。思わず空いた利き手でその頭を叩いてしまった、光なのだった。


「だいたい」
「ん?」
「なんで、いきなり同居」
「同棲」
「………………同居なんだ」
「そりゃあ、お前。一緒にいるために決まってるだろ」
 さも当たり前のような返答に、光は半ば眩暈を覚える。
 こいつ、なに、本当に。
「だからって、なんでこんな」
 無駄に豪勢なマンション。そうは思ったが、口には出さなかった。なんだかんだ言って、小次郎は有名人なのだ。確かにセキュリティのしっかりしたところのほうがいいに決まっている。
 それも、目的が自分との『同棲』であるのならば。
「こんな?」
 と、繰り返された言葉に、光はさてどう返したものかと瞬間考える。
「光?」
「無駄に豪勢なキッチン設備……。お前にそんな趣味あるなんて知らなかったぜ……」
「別に趣味ってわけじゃない」
「あ?」
 じゃあなんであんな無駄に豪勢に整ったキッチンが必要なのか。
 と、後ろからしっかりと抱き寄せられたりなんかして、光は目を白黒させる。逃げようにも、その腕は無駄に力強く光を引き寄せているし、その上今はその手を振り払ってまで逃げ出せるだけの体力も残っていない。そして避難できるベッドも、他にないのだ。
 そんなことを考えると、つい直前までの行為が思い起こされそうになり、光は慌ててそれを思考から追い払う。
 自ら許容したこととはいえ、正直今はまだ──いや今後だってきっと──冷静に思い起こすことなど出来るはずもない。
 それはさておき。
「趣味じゃなきゃなんであんな立派なキッチン……。そもそも今日の料理だって」
「そりゃあ、お前に食わせるためだからな」
「あ?」
「美味いものをお前に食わせるのが目的なんだ、半端なことはできないだろう」
「はあぁ?」
 なんだそりゃ、そう言い放つ光に、そのままの意味だと言って笑う。
 わけわからん。そう言って腐てくされたように唇を尖らせたのち、ふわあぁと大きな欠伸を零すと、光は幼子のように目をこする。
 も、だめ、眠い。そう零したかと思うと、すでにうつらうつらと瞼が覚束ない光の旋毛に、小次郎は小さく口付ける。
「おやすみ」
 そう言ってやれば、ん、おやすみ、と消え入りそうな声。そのまま暫く抱きしめていれば、すぅすぅと穏やかな寝息。
「光?」
 そう声をかけてみるが返事は勿論すでにない。
 その様に小次郎は小さく微笑んだ。
 なんだかんだ、彼は自分に対して無防備だ。そう思うと、胸の奥がふわりと暖かくなる気がする。
 無防備で、そうして朗らかなその笑みを得たいがための、キッチンと料理だと告げたら、彼はどんな顔をするだろう。
 初めて食事に言ったときに、それはもう美味そうに物を食べるその表情に、苦笑しつつも心和んだのを今でも覚えている。それから、なんどもその顔を目にするにつれ、その顔を自分の手で作りたいと思ったのだ。
 そう思ったのが先か、彼に惚れたのだと自覚したのが先か、はたまたそれらが同時進行だったのか、それはもう今更どうでもいいことだ。
 ただ、惚れた相手との、その時間を。
 生きて行くために必要不可欠な食の時間を、彼と共に過ごしたかったのだ。まあもちろん、その時間以外だって、仕事抜きでの時間を欲していたのだけれど。
 そのためには、正直諸々考えると時間が足りない。
 …………まさかそんな理由でモデル業の引退を決めたなんてバレた日には、血を見そうだがな。
 小次郎はそう考えながら。
 ようやく手に入れたその時間を思う存分享受しながら、眠りに就くのだった。



■そんなわけで2014年松コミで発行予定だった松小次を、覚悟を決めて(笑)晒してみました。
■blogのほうで時々投下してた、歳の差パラレル若反の、脇で出てる松小次です。
 でもこの話の段階ではまだ松小次と若反は知り合ってないのです。
 この後一樹ちゃんと光が知り合って、そんでわかしーも関わって、ってな具合です。
■タイトルの「victual」は発行予定の本のタイトルでした。
 なんか食卓というか、食べる行為がテーマになって、そこから単語探したのです。
 で「victual」=「名詞:食物、食糧」「動詞:食べ物を供給する、食料を積み込む」と出て。
 あと決め手は「語源:生きるためのもの」。
 そこに松コミ相方宮館さまと2人して反応して、タイトルに決まったのですね。
 で、そのタイトルから派生して、こんな話に(笑)
 日向さんが、松山にご飯食べさせたい、って、そんなところから。
 あと、それに、その後発見した「victual」の動詞の意味に、「(動物が)獲物を食う」ってのも、
 いろいろ影響したかもしれません(笑)
■あいかわらすエロシーンは逃げてますが、そこは皆様の妄想にお任せということ(笑)