半眼
(久昌通信七十号より)・・・平成12年10月)
半眼(はんがん)とは読んで字のごとく、眼をなかば開くこと(広辞苑)です。仏教的にいえば、半分は外(の世界)を見、そして半分は自己を見つめる、あるいは目には見えないものを見る(考える)ということです。
このテーマにしようと思ったのは、この夏でしたか、世間との接触を完全に絶ち家族数人を餓死させてしまった、塀に囲まれた庭には神様が息できるように、と大きな穴が掘ってあった・・という事件が報道されたのがきっかけです。神様には息をさせたかったけど家族の人には息をさせたくなかったんでしょうか。
要するに、自分の信ずる神(目に見えないもの)にだけ目を開き、ほかのことには目をつぶっているということです。様々な宗教がらみの事件がありますが、現れる形は違っても、根本にはそういう面があるのではないかと思います。
一方、「私は宗教を信じない」と主張する現代日本の多くの人々は(「宗教を信じない」などと明言することは、世界的に見るとかなり恥ずかしいことなのですが・・)、大金や宝石、それに美しいスタイルやご馳走など、目に見えるものにばかり注意を奪われ、他のことには目をつぶった生き方をしているのではないでしょうか。それもやはり上に書いたのとは反対の意味の、かたよった生き方と言えるのではないでしょうか。そういう多くの人々の生き方が、現代、様々な形で(たとえば親子の断絶など)ほころびを見せているという気がします。
そんなことをあれこれ考えているうちに『半眼』の重要性を強く感じるようになりました。
目に見えるものにも注意を払い大切にし、そして一方では目に見えないもの(たとえば子供の将来)も大切にする、そんないわば、両面性を備えた生き方が大切です。
様々な仏像は、いくつかの例外を除いて半眼になっています。これは仏像に向かって手を合わせている人々をやさしいまなざしで見つめてくださる、とともにその人々のためになる何かを思案してくださっているということです。ということは、仏像は単に見えているものだけを見ているのではない、見えないものにも、思いをはせるのだという姿勢がはっきりとあらわれています。
坐禅にしても眠気を払うため、かっと目を開いた坐り方(坐禅の仕方)もありますが、要するにもっとも大切なことは、自分の内側と外側との両方を見ようという、半眼の心がけです。いずれか一方に偏ってはいけないし、もちろん一方を遮断する(目をつぶってしまう)ことは許されません。