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住職法話集

彼岸と悲願

毎年、春と秋の2回『おひがん』がやってきます。『春分の日』と『秋分の日』を中日とする、春と秋のそれぞれ1週間を『お彼岸(ひがん)』と呼びます。日本人にとって大変重要な仏教の行事であり、多くの人がこの期間に、お墓を掃除し、そしてそれにお参りする事でしょう。

 ところで、仏教がインド生まれなのに、『お彼岸(ひがん)』は日本生まれの行事です(もちろん『彼岸』という言葉自体はインド生まれですが、春と秋の1週間…という『お彼岸(ひがん)』はインドにはありません。

私達は『暑さ寒さも彼岸まで』という言葉を気軽によく使いますが、この言葉は単に季節を言い表す言葉では無く大変重要な意味を持っていると感じます。

その点を紹介させてもらいたいと思います。
仏教(釈迦の教え)を別の言い方で『中道(ちゅうどう)』といいます。仏教の修行は、肉体を滅ぼしてしまうような難行苦行にも、快楽を徹底して追及するような快楽主義にも、どちらにもかたよってはならない。そのどちらにも片寄らない『中道(ちゅうどう)』こそが仏道修行の有り方である、というわけです。
つまり暑さにも寒さにも片寄らない日本の春と秋は『中道(ちゅうどう)』にあい通じるところがあると、昔の日本人が思いついて『おひがん』をこしらえたのではないでしょうか。インドには雨季と乾季は有っても、日本のような四季はありませんから、『春と秋の1週間』などとは思いつきようが無かったのです。

『中道(ちゅうどう)』はギターや琵琶のような弦楽器によくたとえられます。つまり、弦をあまりゆるく張りすぎると、ベロンベロンというような奇妙な音が出てしまうし、あまり強く張りすぎるとすぐに切れてしまう…、どちらにも片寄らず適当な強さで張ってこそ綺麗な音が出るのだ、といわれるのです。

『彼岸』は何とかして悩み苦しみに満ちたこちらの岸(此岸(しがん)といいます)から、悩み苦しみの無いむこうの岸へ渡りたい、という強い憧れを表した言葉です。その、わたるための様々な方法を示しているのが仏教(釈迦の教え)であると考える事ができます。(『彼岸』については当HP内の仏教講座第13回『六度』をご覧下さい)

ところで彼岸は、『悲願』と同じ言い方だなあ、と以前から思っていました。『彼岸』に渡りたいというのは、仏教徒にとってどうしても達成させたい願い、つまり『悲願』に違いないなどと思っていましたら新聞にこんな俳句が載っていました。十数年前『赤報隊』と名乗る一団によって、まだ若かった新聞記者であった息子さんを殺された母親が作った俳句です。

彼岸来て 悲願続けて また彼岸

彼女の悲願は息子を殺した『赤報隊』が特定され裁判にかけられて、罪を償う事です。しかしその悲願は達成されないまま、事件は時効になってしまいました。