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住職法話集
丸い鏡のような心
お塔婆やお位牌の上に○がよく書いてありますね。もちろん宗派によってお位牌にもいろんな形式がありますが、○は禅宗(臨済宗は、いわゆる禅宗に含まれます)のトレードマークとも言えるかな、と思います。ご法事にお参りした時やなんかに、よく「和尚さん、あの○は何ですりゃア?」と尋ねられることがあります。そんな時には私「あの○は鏡なんですよ。丸い鏡のような心の象徴です」と答える事にしています。
正式に言うと『大円鏡智(だいえんきょうち)…大きな丸い鏡のような智慧』という意味だと、考えてください。
鏡というと、現代では大部分の人が四角いガラス製の物を思い浮かべると思いますが、昔は鏡は金属製の丸いもの、と決まっていました。それを磨きに磨いて、ピカピカにするとそれが丸い鏡となる、というわけです。もちろん全く磨かない鏡というのは有り得ません。磨いて磨いて磨き抜くと、やっと一人前の(というのも変ですが)鏡になるわけです。それと同じようにわれわれの心も、『磨く』という作業が必要なのだ、と示してくれているようです。
さらに大事なことがあります。鏡の一番大事な役割は、(その鏡の)前にきた物をそのままありのままに写す、ということです。笑った顔が来れば鏡も笑う、悲しい顔が来れば鏡も悲しそうな顔を写す…我々一人一人の心の持ち方もそれと同じようでなければならない、という戒めがあの○の中には含まれています。
ところが全く磨いていない心はどんな風だろう?と考えてみましょう。目の前に嬉しそうな顔をした人がやってくると、一緒に喜んであげればいいのに、つい『こいつ、何をニヤニヤ喜んでいるんだろう』なんて不審に思ったり、ねたみを感じたりする。また目の前に悲しげな顔をした人がやってくると、なんとなく勝ち誇ったような気になって、口先では同情するようなことを言っても、心の中では嬉しい気持ちがでてくる。つまり、磨いていない心は、目の前にきた物をそのまま写さない、むしろ逆様な心の持ち様になってしまいます。 磨いて磨いて磨き抜いて、目の前の物をありのままに写すような鏡のような心になりなさい、という象徴がこの○です。この○にはそんな意味あいがあります。
(平成13年10月・久昌通信80号より)
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