住職法話集
ピンポン伝来の地
岡山市門田屋敷(かどたやしき)の三友寺(さんゆうじ)に縦横1メートルほどの大きさの、花崗岩(かこうがん)の石碑が立っています。
その石碑には大きな文字で「ピンポン伝来の地岡山」と刻まれ、小さな字でその由来が書かれています。
三友寺といえば、『児童福祉の父』と言われる石井十次(いしいじゅうじ)が、明治20年に日本初の孤児院を作った場所として有名です。
久昌寺とおなじ妙心寺派の禅寺が、日本初の孤児院であった事は何となく誇らしげに感じておりましたが、それ以外にもうひとつ日本初があったとは、ビックリしました。
記念碑が建立されたのは2006年、今から2年以上も前になりますが、私はそのことを全然知りませんでした。
昨年のくれ、所用で三友寺の和尚さんが久昌寺に来られた時、そのことを教えてもらって、とても印象に残りましたのでご紹介します。
日本に卓球が伝わったとされるのは明治35(1902)年です。
東京高等師範学校(現在の筑波大学)の坪井玄道教授が用具一式をヨーロッパから持ち帰って、日本で初めてスポーツとしての卓球を広めはじめたのが明治35年、これが、卓球の日本伝来の初めとして定着しているそうです。
では、なぜ「ピンポン伝来の地岡山」なのでしょうか?
童謡の『赤とんぼ』や歌曲『からたちの花』などでよく知られている作曲家・山田耕筰(やまだこうさく)(明治19年~昭和40年)が残した自叙伝の中に、彼の岡山在住中に卓球(ピンポン)をした、という記述があり、それは明治32年のことだそうです。
山田耕筰が岡山にいたことがあった、というのも初耳です。その理由はこうです。
耕筰の姉・恒子の夫はイギリス人の宣教師エドワード・ガントレットという人で、彼は岡山の第六高等学校(現岡山大学)の教授でもありました。
そして当時、夫婦は三友寺に寄宿していたのです。
聞いたところによりますと、山田耕筰は、後の大作曲家のイメージからは想像もつきませんが少年時代はかなりの不良で、岡山の宣教師の義兄のところに行け、とでも言われたのでしょう。彼は岡山にやってきて姉夫婦と共に過ごしました。
ガントレットから西洋音楽の手ほどきを受けた山田耕筰は、その後有名な音楽家となります。
そして耕筰が残した記述の中に、自分が13歳の頃レクレーションとしてピンポンをして楽しんだということが見られるのです。
ガントレットが、イギリスから持ち込んでいたピンポンの道具を使って行なわれたに違いありません。
スポーツとしての卓球の日本伝来は明治35年、レクレーションとしてのピンポンは明治32年に岡山で(おそらく三友寺で)行われたのです。
それにしても、ガントレットさんは作曲家・山田耕筰の誕生にも大いに貢献しているんですね。そのことも大変な驚きです。
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