第30回 名僧列伝4 臨済義玄
臨済義玄
(りんざいぎげん)
臨済宗の開祖とされる臨済義玄(りんざいぎげん)和尚についてご紹介します。
臨済義玄和尚は9世紀頃の人、今の中国の山東省の出身ですが、河北省の臨済院というお寺に住されて活躍なさったことから臨済和尚と呼ばれるようになりました。
臨済の『喝(カツ、またはカーッ)』といわれる様に、『喝』が臨済宗の代名詞ですが、臨済和尚はその喝をよく使っておられました。
しかし、一般に『喝を入れる』などと使われていますが、『喝』は人を怒ったり、また気合を入れたりするためのもの、と考えられがちです。喝は臨済から出てはいますが、本当の臨済の『喝』はそれとは違います。
『教外別伝(きょうげべつでん)』という言葉からわかるように、仏教のさとりは残された書物や言葉とは別に伝わっているのだ・・・という思想が禅宗(臨済宗、曹洞宗、黄檗宗など)の根底に流れています。
臨済和尚も、多くの仏教の経典や書物に通じていましたが、おそらく自分では究極のさとりにたどり着いたとは感じられなかったのか、それらに満足できなくて『禅』の修行を求めてそれにたどり着いた方でした。
『さとり』は言葉や文字で説明できるものではありません。
臨済和尚はその説明不能のところを、時や場所に応じて『喝』を用いて表現したのです。
時にはその喝を聞いて、弟子が震え上がるという場面もあったと思いますが、それは決して弟子たちを脅すためのものではなく、臨済和尚の(説明不能の)『さとり』を表現するためのものでした。
『喝』によるさとりの表現・発露は、弟子たちにお手本を示し、さとりに導こうとする『大慈悲心』の表れでもあります。
外から見ていると、大声で叱られたり、ぶん殴られたりしているところが実は『慈悲』を受けているに他ならない、というのはなかなか理解しにくいところでしょうが、力量不足の私にはとても説明できません。また説明しようとしないほうが良いようにも感じます。
あまり文章が長くなるのもいやですから、『臨済録』という書物の中に、夜空の星のようにちりばめられた多くの素晴らしい言葉の中から、ひとつだけご紹介しましょう。
| 『一無位の真人(いちむいのしんにん)』 |
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「赤肉団上(しゃくにくだんじょう)に一無位の真人有り」(お互いのこの生身の肉体上に、何の位もない一人の本当の人間、すなわち「真人」がいる。) 「無位」とは、一切の立場や名誉・位をすっかり取り払い.何ものにもとらわれないということです。 「真人」とは、真実の人間性のことで、誰でもが持っているものです。この『真人』が、わたくしたちの単に肉体に宿っている、と臨済禅師は我々一人一人を叱咤激励しておられます。さあ、自分探しの旅への出発です。
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