第31回 名僧列伝5 栄西
栄西禅師
(えいさい・ようさいぜんじ)
(1141~1215年)
先日、テレビでペットボトル入りのお茶のコマーシャルで「ようさいぜんじがお茶を伝えて以来・・・」といっているのを聞きました。
そうです、栄西は『えいさい』とも『ようさい』とも呼びます。どちらが正しくてどちらが間違い、とは言いにくいと思いますが、歴史的には『えいさい』、宗教的には『ようさい』っぽいかなあ、と感じます。
日本で一番古く臨済禅を広めた人物として知られている栄西禅師は、最初にお茶を日本に広めた人としてもよく知られています。
栄西禅師は岡山の吉備津宮の神官の家に生まれ、幼少のころから抜きんでた英才と伝えられており、14歳で比叡山に上がりその後2度にわたって中国に留学、黄龍(おうりょう)派の臨済禅を学びました。
その臨済禅を日本に広め(博多聖福寺・京都建仁寺などを創建)、またその臨済禅の修行にもおおいに効果のあったお茶を全国に広めました。
今日の茶道にしても、現代の日本人がお茶に親しんでいることにしても、栄西禅師ぬきに語ることは出来ません。
ところが、栄西禅師がそのように超一級の歴史的人物であるにもかかわらず、今日の日本の臨済宗門の中であまり重要視されること無く、強く仰ぎ見られるということがありません。
その理由は幾つか考えられますが、一番根本的な理由は、現存している日本臨済宗の禅は全て栄西禅師の伝えた黄龍(おうりょう)派の臨済禅ではない、ということだと思います。
しかし私個人と致しましては、栄西禅師が岡山県出身の方ということや、私は博多聖福寺で2年ほど修行させてもらったということもあり、今よりもっと栄西禅師を顕彰する必要がある、と考えています。
栄西禅師につきましては、臨済宗門においてもこれからの課題が少なくないと感じておりますが、そんな栄西禅師の逸話をひとつだけ紹介しましょう。
ある本の中で読んだ逸話です。
・・・昔、嵯峨天皇の頃、天皇さまの六条河原の別荘が、河原院というお寺になりました。
河原院には梵鐘がかけられていましたが,幾星霜を経るうちに、仏閣は荒廃し、この鐘は土中に埋まっていました。
建仁寺の建立のとき、この鐘を土中より引き上げて建仁寺に移すことになり、力持ちが引こうとしますが、鐘は一向に動きません。
ところがそのとき、栄西が自分の名を呼んで引いたら良いと言うので、みんなで声を合わせて「えいさい、ようさい」と掛け声をかけますと、鐘はたちまち動いて建仁寺に移すことが出来たと言われています。
今日、大きな物を運ぶときに、この囃子を用いるのはこういういわれがあるのです。
(『高僧伝・栄西』平田精耕著・集英社1985年より)・・・
栄西禅師のお名前は「えっさ」や「ヨイショ」の語源だったんですね。オドロキです。