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常山女軍

常山女軍

 戦国時代の常山落城時の常山女軍の事は、荘内(しょうない)や灘崎(なださき)に住んでいる人たちにとっては周知の常識だと思っていましたが、どうやらそうでもないらしい、と感じさせられることも多いので、今回この紙面でご紹介します。

天正三年(1575年)六月四日、常山城(城主・上野隆徳)は総勢七千ほどの毛利勢によって完全に包囲され、落城の時がせまっていました。
そして六日の朝には総攻撃が始まり、それと同時に逃げ道には火が放たれ退路も断たれてしまいました。

 翌日早朝には城内で最後の酒宴が催され、一族いさぎよく自害しようと申し合わされたのです。

一族の自刃の修羅場が展開する中で、隆徳の妻(備中松山城主・三村元親(もとちか)の妹で名を鶴姫と伝えられています)は男に負けない武勇の持ち主で、「敵を一人も討たないでやすやす自害するのは口惜しい」と鎧を着け上帯を締め長刀を小脇に抱え、敵前におどり出ました。

それに従い『遅れてなるものか』とばかりに侍女たち三十四人がそれぞれ長刀をとり、敵の中に飛び込み、大いに奮戦しました。

しかし圧倒的多数の敵勢に対しては、彼女達はあまりにも無力で、一人また一人と討ち取られ次第に少なくなってゆきます。

奮戦の後、鶴姫は「父・三村家親から与えられたもの」と国平(くにひら)の大刀を投げ出し死後を弔って欲しいと言い残して再び城中に消えていきました。
そして、念仏を唱えたあと、口に刀をくわえ、前に倒れこむように突っ伏して、壮絶な最後を遂げたのです。

それを見届けた後、城主・上野隆徳も腹を十文字に切って果てました。

それぞれの首は、当時毛利氏を頼り、備後の鞆(浦(とものうら・現在の福山)にいた没落将軍・足利義昭(織田信長に京都から追放されました)のもとへ送られたということです…。(『備前児島と常山城』…北村章著・1994年山陽新聞社発行、ほか『備前軍記』『備中兵乱記』等を参照)

 この鶴姫を中心とした常山女軍の話は、歴史書ではなく軍記もの(物語)の伝えるところで、実際に女軍の奮戦があったのかどうか、あったと断言することが出来ません。

常山の山上にある女軍の墓は、言い伝えに基づいて大正時代に作られた新しいものです。

しかし、私は、城主・隆徳の妻(鶴姫)の毛利家に対する恨みは相当なものであり、そのことからしても、後世語られるべき女軍の奮戦は確かにあったに違いないと感じています。

鶴姫は、自分の父で三村一族の頭領であった三村家親(いえちか)を、宇喜多氏によって暗殺という卑劣な方法で殺されてしまっていました。

ぜひいつかは敵討ちをしよう、そのためには毛利氏の力もかりなければ、と考えていた間に、毛利と宇喜多の同盟が成立しまったので、念願は果たせぬ夢となってしまいました。

この時代、女であるがゆえにこの恨みの感情を日頃押し殺して過ごしていた鶴姫が、死を目前にして『(毛利に対して)戦わずしてなるものか』と考えたであろうことは容易に想像できるのです。