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常山城と久昌寺

常山城と久昌寺 その1

以前から色々なお寺や神社にお参りしたとき、「うちのお寺(神社)は○○年に、かくかくしかじかの縁でできました」などと聞くたびに、久昌寺にはその様に言える昔の資料が何もなくて少々ねたましく感じていました。これから何か新しい資料が出てくるとも思えないし、また探すだけのエネルギーもありません。が、今ある資料を整理しながら、何とか寺歴の格好をつけてゆきたいと思います。

山陽新聞社から出版された「備前児島と常山城」という本の著者である北村章(きたむらあきら)先生は、玉野高校での私の2年先輩です。その先生が本を書かれる前に、久昌寺まで取材にいらっしゃった時、「久昌寺は、玉野市史などによれば、室町時代後期にこのへんを治めていた飯尾(いいお)代官が創った、とされていますが、やはり常山城主(であった上野氏)が創ったと思います」と言われました。その本の中から、常山城と久昌寺に関係する部分を、特に注意深く読みましたので、整理して紹介いたします。

久昌寺は、阿波の国(徳鳥)の戦国武将・三好長慶(みよしちょうけい)をまつるとされて来ました。しかし、長慶の法名は「聚光院(じゅこういん)」であって「久昌院」ではありません。「久昌院」は、三好家の主筋になる細川家(阿波の国の守護、三好氏はその守護代)の細川義春の法名の中に見えます。義春が亡くなったのが一四九四年、ちょうどその頃から上野氏が常山城を根拠地に活躍し始めました。阿波細川家の家来であった上野氏が、主人の菩提(ぼだい)をとむらうため、その法名にちなんだ「久昌院」という名のお寺を建てた可能性は、非常に高いと思われます(江戸時代初期まで、「久昌寺」は「久昌院」であった事が、資料で確認されています)。

上に書きました「飯尾代官」は、この地で活躍した時期が少しずれるので、久昌寺の飯尾創建説は誤りであると思われる、ということです。ところで、岡山県である当地が、なぜ阿波細川家の支配なんだ?と不思議に感じる人が多いと思いますが、この時代には児鳥半島は、瀬戸内海に浮かぶ島でしたから、阿波の国の勢力範囲であるのはそう不思議ではありませんでした。

常山城の上野氏は3代目にして、天正三(一五七五)年、小早川隆景ひきいる毛利勢に攻められて滅んでしまいます。

その落城前に、お城の中にあった薬師如来像をふもとの久昌寺に移したと考えられるのです。この事は、私の想像であり、もちろん北村先生の本には書かれておりません。その事は次回・その②に譲りたいと思います。

常山城と久昌寺 その2

久昌寺の薬師如来が、もとは常山のお城の中にあって、天正三(一五七五)年に落城する前に、ふもとの久昌寺におさめられた、という話の前に、その頃の時代背景をお話したいと思います。

このあたり・備前・備中の国は、戦国時代、織田対毛利の勢力がちょうどぶつかりあっていた場所であり、その攻めぎあいの中で、常山城は落城させられました。この後に織田信長・豊臣秀吉が天下統一をなしとげて行った事を思えば、ここ備前の国・児島が、戦国時代の一つの大きな歴史の舞台であった、ともいえるのです。

天正三年は、織田信長が武田勝頼(たけだかつより)軍を鉄砲三千丁を使って打ち破った、長篠(ながしの・今の愛知県)の戦いが起きた年です。

この前年の暮れに、織田信長から備中松山(高梁市)城主.三村元親(みむらもとちか)のもとに、織田が中国地方平定を成し遂げたおりには、備前備中の二国を与える、という誘いの誓紙が届いています。

この誓紙を前にして、三村家一族の評定(ひょうじょう・相談)は紛糾し、一族は毛利方につくものと織田方につくものとに分裂してしまいました。織田方につくのは、毛利勢力のなかで、反旗をひるがえす、ということを意味します。

三村元親はかねてから毛利氏に不満を抱いていたのと、父親である家親(いえちか)を暗殺した仇敵の宇喜多氏が、毛利氏と同盟を結んでいたこともあって、いささか無謀な決断でしたが、結局、織田方につきました。

元親の妹である鶴姫(つるひめ)を奥方にむかえていた常山城主.上野隆徳(うえのたかのり)もそれに同調し、毛利方に反旗をひるがえし織田方についたのです。ところが毛利方の反応は予想以上にすばやく、半年後には備中松山城(現在の高梁市)を落城させ、続いて常山城を攻め滅ぼしてしまいます。この間、織田方からの援軍は全くありませんでした。

織田方としては、大阪の本願寺や最初に書きました武田氏との戦いで忙しく、三村氏への援軍どころではなかった、というところでしょうか。

有名な備中高松城を豊臣秀吉が水攻めにして、備中がほぼ豊臣勢力(信長はこの時、本能寺で死亡)には.いるのが常山落城から七年後の天正十年です。

歴史を語るのに「もし」が禁句な事は承知していますが、ここで敢えて言わせて貰えば、もし、三村家を分裂させた織田からの手紙があと五・六年後であったならば、三村氏も常山城の上野氏も攻め滅ぼされる事なく、後の江戸時代にも生き残る大名だったかも知れません。

おおまかな歴史のおさらいは以上です。そしてもうひとつ、「備前児島と常山城」(北村章著)の本の中から、とても興味深い事を一つ紹介します。

上野氏は常山に落ち着く以前(五百年以上前)備中に根拠地をおいていたのですが、現在の吉備郡真備町(きびぐんまびちょう・備中の国)に、上野家の菩提寺とされている臨済宗の報恩寺(ほうおんじ)というお寺があります。そこには常山で亡くなった隆徳と奥方の鶴姫の大きな位牌が残っているそうです。遠く離れた備中に、なぜ隆徳の位牌が…と不思議でしたが、読み進んで驚きました。

天正年間に亡くなった、報恩寺の住職さんの過去帳の記録によれば、名前の下にはこう書いてあります。

上野肥前守殿兄也、と。上野肥前守はもちろん上野隆徳のことです。報恩寺の住職さんは隆徳のお兄さんだったのです。

常山城と久昌寺 その3

天正三(一五七五)年に常山城が落城させられた時の城主、上野隆徳(たかのり)の兄が備中の吉備真備町にある臨済宗のお寺・報恩寺の住職であったことから考えると、久昌寺が報恩寺と同じ臨済宗であることは、久昌寺と常山城主・上野家との繋がりを示すのではないかと感じます。

上野氏の常山在城の戦国時代より以前は、久昌寺が普通の邸宅だったか他宗派のお寺であったか見当もつきませんが(資料がまったくありません)、久昌寺は、戦国時代に上野氏が創建したか、もしくは上野氏の保護を受けて、臨済宗の寺院としての歴史をスタートさせたのだと考られます。

さて、ここまで考えますと、久昌寺におまつりしてある薬師如来像が、常山落城直前にお城から下ろされたものであるという言い伝えは、真実だと言ってもさしつかえないのではないでしょうか。

備前児島と常山城」(北村章著)の本の中には、真備町の報恩寺に、上野隆徳とその奥方のお位牌だけでなく、上野氏ゆかりの軸物が3点残されていることも紹介されています。いずれも紙本で『痛みが激しく、緊急に修復が必要』と書かれていますが、現在はちゃんと立派に修復されています。

3点の中の1点の端書には『天正(てんしょう)の乱(常山城落城)で上野氏が滅びたため報恩寺に納めた』と書いてあり、北村先生はさらに『おそらく隆徳から常山落城の直前に琴渓和尚(きんけいおしょう)隆徳の兄・報恩寺住職)のもとへ贈られたのではないかと思われる』と書かれています。

想像するに、常山城主である隆徳は、自分のお城が落城してしまう直前の混乱の中で軽いお軸は遠くの備中の、自分の兄がいる報恩寺へ、そして重い薬師如来の像は、常山のふもと(の久昌寺)と難から逃れさせたのだと思っています。

いずれの場合も、ともかく密やかに運ぶ、と言う事が肝心だった事でしょう。特に、報恩寺にむかったお軸の場合は、敵の毛利勢が進攻してくる方向に向かって行くことになるのですから、敵に発見される可能性が高かったことでしょう。

久昌寺の薬師如来像も、表ざたになると、失われてしまう危険性は非常に高かった訳で、ともかく秘密裏に常山城外に運び出され、むしろどこかに隠された、と言った方がいいかもしれません。

常山落城を語る時、隆徳の奥方・鶴姫(つるひめ)が、自決するのをいさぎよしとせず、みずから武器を取って敵と奮戦、33名の女官がそれに続いて壮絶な死を遂げたという、いわゆる「常山女軍」の話を避けて通る訳には行きません。しかし、それを誰もが知っているおもての話、とするならば、その裏に、常山城を避難した報恩寺のお軸(阿弥陀三尊)久昌寺の薬師如来像があるのです。

常山城と久昌寺 その4

久昌寺のお薬師様が、元は常山城の中にあったのだという言い伝えの検証は一段落しました。特に、常山城主.上野隆徳の兄が吉備郡真備町の臨済宗・報恩寺の住職だったことをはじめて知ったことはとても重大な事だと感じます。その報恩寺には、隆徳ゆかりの物が残されています。

要点と思われる事を、箇条書にしてみましょう。

久昌寺は江戸時代以来、戦国大名・三好長慶をまつるお寺と言い伝えらて来たが、阿波の国の守護・細川義春をまつる寺と考えられる。

隆徳の兄が、久昌寺と同じ臨済宗・報恩寺の住職になっていることから、臨済宗・久昌寺の創建には上野家が深くかかわっていると思われる。

天正3(一五七五)、常山城が落ちたとき、落城直前に常山城から、城のまもりぼとけといわれるお軸が報恩寺に運ばれ、それが現在残っている。それと同様に、薬師如来像が常山の麓に下ろされた(現在久昌寺におまつりしている)。

いったいなぜ、久昌寺は“偽り”の「三好長慶とのつながり」を強調してきたのでしょうか?『備前児島と常山城』の本のなかに北村先生がまとめて下さった所によれば、西暦千七百年頃の久昌寺の言い伝えは、常山城が三好長慶の居城であったとか、長慶の常山在城時代に彼自身が久昌寺を創建したとしています。ところが、三好長慶が常山城に居たと言うのは、全く荒唐無稽の伝説です。

いわば「作り話」が寺の言い伝えとして残って来たのです。

この点について北村先生は、本の中で『上野氏が滅亡したあと、寺は(上野氏との関係などの)事実を表に出さず、わずかに三好長慶との伝説を残して阿波国とのつながり』などを語りついできたのだと書かれています。

 もう少し分かりやすく解説すると、北村先生は別のところでこう述べられています。

(常山城落城の)当時この地域は毛利と織田との勢力がせめぎあう境目であった。常山城の上野氏は、毛利氏を離反して織田についた(備中の)三村氏と運命を共にした。上野隆徳との関係が深ければ深いほど、(それが表ざたになると毛利氏に討たれる危険性が増す、という意味で)厳重に秘する必要があった…」

玉野市内の八浜には、常山落城を前に、上野隆徳の末娘が落ちのびて隠れ住んだとされる集落があり、そこでは代々、上野氏の男子の子孫が生まれたことを秘するため、男児が誕生しても絶対鯉のぼりを上げてはいけない、という風習が残っています。

この事は、北村先生の言葉を大いに裏付ける事実で、久昌寺の寺歴改変の理由も、これと同様だったろうと思われます。

最初の頃は、作為的だったこの(三好長慶とのつながりを言う)寺歴創作が、時間がたつにつれて久昌寺のなかでは、定着した真実の歴史として言い伝えられて来た、というのがほぼ真相ではないでしょうか。