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久昌通信

平成十九年六月

久昌通信137号おもて

 5月は、暑い日があったり、また急に寒くなったりで天候不順な日々が続きました。その不順を象徴するかのような不可解な事がおこりました。戦後初めて、という現役の大臣の自殺です。他人にはうかがい知れない原因があったのでしょう。残念なことです。そしてまるで連鎖反応のように、新たな自殺者も出てしまいました。関連があるのかないのか、しっかりと事情を明らかにしないと、再びこういったことが繰り返されてしまいます。ともかくかけがえのない命をあまり粗末に扱ってはなりません。自分の命は果たして自分の所有物なのでしょうか?法律が仮にそう決めているだけではないでしょうか。

なっちん

『なっちん』は漢字で書くと『納音』。
運勢占いのひとつであり、暦の本の解説によれば『人は干支(えと)と共に納音(なっちん)の気をも併せ含む』ということです。
各人の生まれ年(えと)によってそれぞれの納音も定められているのです。

先日、何かのことで暦の本を見ていると、偶然に『山頭火(さんとうか)』の文字を見つけました。
なぜ俳人の名前が暦の本に?と思い調べてみると、『山頭火』とは納音のひとつだということがわかりました。

今までは、私の知る限り、山頭火といえばすなわち、自由律俳人の『種田山頭火(たねださんとうか)』でした。
種田山頭火(1882年~1940年)は、本名は種田正一、山口県の生まれ、修行僧として旅しながら句作に励んだ人です。
『山頭火』は私のとても好きな俳人のひとりですが、『俳人というのは変わった名前を名のるもんだなあ』とぼんやりと考えていただけで、その由来を調べる事まではしていなかったのです。

このたび『山頭火』が納音だということを初めて知りました(恥ずかしながら今まで知りませんでした)。
種田山頭火の名前は、それに由来しているに違いありません。
ちなみに、暦の本によると、『山頭火』とは『
山頂の火は弱く燃え上がるが物を焼く火力はないように、高邁(こうまい)の気を含むが力量の足りぬ傾向がある』ということです。
調べてみると、種田山頭火以上に有名な俳人・
荻原井泉水(おぎわらせいせんすい)の俳号も納音のひとつでした。『井泉水(せいせんすい、泉中水とも言う)』とは『地より湧く水。勢いはないが汲めどもつきぬ豊かさの意があり、正しさと温柔さを示す』です。

ついでに私自身の納音も調べて見ました。私の干支(えと)は乙未(きのとひつじ)、納音は沙中金(さちゅうきん)です。『沙中金』は『砂の中に混じったわずかな金である。他に見出されてはじめてその貴重な特性を発揮するので、忍耐を要す』ということでした。
忍耐を要す、のはそのとおりと思いますが、前半はちょっとほめ過ぎの感じですね。



久昌通信137号うら

『千の風になって』のこと

『千の風になって』の歌をご存知でしょうか?
随分はやっていました。
その流行もすぐ終わるだろうと思っていましたら、今でも衰えません。
先日のテレビによると、その歌だけがはいったシングルのCDの売り上げ数が、もうすぐ100万枚に達するそうです。すごい!

なんといってもその流行に火をつけたのは昨年暮の紅白歌合戦で、この歌が歌われたことです。
紅白より前は、半年で1万枚ぐらいしか売れていませんでした。
ところが今は週1万枚のペースで売れている、ということです(元は英語の歌です)。

その歌の歌詞をご紹介しましょう。
日本で『千の風になって』という題名で知られるこの歌の詩は、元の題を[Do not stand at my grave and weep(私のお墓の前で泣かないで)]といいます。

私のお墓の前で 泣かないでください
そこに私はいません 眠ってなんかいません
千の風に 千の風になって
あの大きな空を 吹き渡っています

秋には光になって 畑にふりそそぐ
冬はダイヤのように きらめく雪になる
朝は鳥になって あなたを目覚めさせる
夜は星になって あなたを見守る

私のお墓の前で 泣かないでください
そこに私はいません 死んでなんかいません
千の風に 千の風になって
あの大きな空を 吹き渡っています
(2行くりかえし)

この歌詞の原作者はメアリー・フライというアメリカ人女性です。
各国で行われる慰霊祭などで、必ずといってよいほどこの歌が登場し、遺族の心を和らげています。
アメリカの同時多発テロの犠牲者達をしのぶ追悼集会が、事件の1年後(2002年9月11日)に開催されました。
そこで、遺族である一人の少女が“Do not stand at my grave・・・”と始まるこの詩を朗読したことが、世界中に広まってゆくきっかけとなり、それがやがて日本の紅白歌合戦で歌われることへとつながっていきました。

ある新聞の投書をご紹介します。『主人が亡くなって、泣きながら暮らした。(中略)ある時、寺の住職の一言に救われた。
「○○さん、泣くことないですよ。ご主人はいつまでもあなたのそばに居てくださるんです。あなたとともにみえますよ。」この住職の一言が生きる勇気をくれた。そして今、「千の風になって」という歌に巡りあった。』
『私(故人)は…千の風になってあの大きな空を吹きわたっています。
秋には光になって畑にふりそそぐ。冬はダイヤのようにきらめく雪になる。
朝は鳥になってあなたを目覚めさせる。夜は星になってあなたを見守る。』
の言葉は明快で本当に素晴らしく、心に深く残ります。
一切衆生、山川草木(さんせんそうもく)、みなほとけ』という仏教の根本概念を具体的に述べた言葉であると言えるでしょう。
しかし、歌詞の最初の印象的な言葉、『私のお墓の前で 泣かないでください。そこに私はいません』はどうでしょう?『そこに私はいない』と言うのならお墓は要らないのでしょうか?

結論からいえば必要です。
これは、別に私が墓石屋さんの手先として言っているワケではありません。
私は、お墓があることによって、この文章を読んでいるあなた方の子孫はきっとあなたに感謝するに違いない、と思うのです。
あなたが亡くなったあと数年間、あるいは長くて10年・20年間は、残された人たちは、風や鳥の声の中に『あなた』を感じることでしょう。
しかしそれより長くはまず無理です。50年・100年後の子孫は、お墓の前でこそ、あなたを思い、感慨にふけることでしょう。
泣くのではなく、おそらくは幸せそうに笑いながら…。