久昌寺にようこそ
豊岳山久昌寺 豊岳山久昌寺のホームページメニューを右に表示しています
豊岳山久昌寺のホームページにようこそ!



久昌通信


久昌通信157号

鞆幕府(ともばくふ)

 秋もめっきり深くなってきました。
今年は秋らしい秋の日々が長くつづいて何となくうれしい気がしますが、新型インフルエンザが猛威を振るっているようで、単に喜んでばかりもいられません。
私も、時に思い出したように実行しておりますが、うがい・手洗いの励行を忘れないようにしたいものです。

10月のはじめ、福山市鞆(とも)の事が新聞・テレビなどで大きく報道されました。
架橋のために鞆の浦の海を埋め立てようとする工事が、止められることになったという事です。
地元住民のあいだでは橋を望む声が有力らしいですが…。
その後どうなっているのでしょうね。

今回はその事ではなくて、今から四百数十年前の戦国時代に『鞆幕府』があった、という事を紹介したいと思います。
天正元年(1573年)に織田信長によって足利
幕府十五代将軍・足利義昭は京都を追放されました。
追放後、足利将軍は紀州などで過ごした後、安国寺恵瓊(えけい)(僧侶・当時は毛利家家臣)の尽力によって、毛利家が流浪の足利将軍を庇護する事になったのです。そして天正4年に、福山の鞆に足利幕府十五代将軍・足利義昭は迎えられ、将軍がいるという事で、多くの大名やその使者が鞆を訪れました。

結局は、毛利家は織田・豊臣(秀吉)の勢力に屈し、天下取りのレースに破れてしまいました。それに伴い、鞆幕府も、いよいよ有名無実となり消滅してしまったのです。
義昭は、はじめは秀吉に対抗しようとしたものの後には秀吉にへつらって位をもらったり、京都で余生を過ごし61歳で亡くなったと伝えられています。

義昭が鞆に来たとき(天正4年)、歓迎の宴が開かれた小松寺(しょうしょうじ)、恵瓊(えけい)が作った庭園の残る安国寺、またこの時期、毛利家と戦った山中鹿之助の首塚のある静観寺(じょうかんじ)…、これらのお寺はみな臨済宗妙心寺派です(ちなみに安国寺のとなりの正(しょう)法(ぼう)寺(じ)のご住職は現在本山の教学部長さんです)。
鞆の地は本山ともご縁の深い地なのです。



安らぎ電話第35回(昭和62年7月)

     安らぎ電話1周年(お経の稽古)


 早いもので安らぎ電話のテストを始めてからもう1年がきました。
母の13回忌の供養のつもりで始めたわけですが、さすがに1年、色々なお話をさせていただいて、多くの人に聞いていただき有難うございました。
今日は孫と一緒のお経のけいこを聞いてください。

 
 孫と読むお経は悠々朗々と まあかあはんにゃあはあらあみいたあ

 朝のおつとめには孫娘二人ともまだ寝ています。お経のけいこは、ごはんができて、お供えをする時です。
今四才の上の子が、二才の頃からはじめました。

 ひざにだいて、顔をのぞき込むようにして、頭をふりふり拍子をとりながら「まあかあはんにゃあはあらあみいたあしんぎょう」と5回ほどくり返したのが最初のおけいこです。 

 私が頭をふるのに合わせてうなずきながら「たあたあたあたあ」と受けたのが最初の反応です。

3才ごろには初めの2行ほどまあかあはんにゃあから一切苦厄舎利子までと、おしまいのぎゃあていぎゃあていから般若心経までがお唱えできるようになりました。
舎利子の次の色不異空空不異色はなかなか舌が廻りにくいらしくて四才になった今も口をつぐんでしまい、それからところどころ口を合わせてついて来て、三世諸仏依般若波羅蜜多のあたりから、水を得た魚のように元気よく、声を張り上げて最後のしんぎょうまで澄み切ったかわいい声でお唱えできます。

下の子が、今1才9ヶ月ですが、そばで、でたらめ木魚をたたきながら「ああああああああ」とやっています。おじいちゃん和尚としてはなかなか楽しいわけですが、近ごろは「さあ、まあかあはんにゃだよ」と誘っても、「だあめ」とことわられることが多くて、お流れになり、ちょっぴりさびしいのです。
ところがそのさびしさも、「まあかあはんにゃあ」と『あ音』の連続でふき飛んでしまいます。
読経は有難いいいものですね。              (
先住職・豊岳明秀)