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久昌通信


久昌通信159号 (平成22年2月号)
 
方好安眠豊岳天

 
一月二十九日、誠におかげさまなことに晴天かつ寒くもない穏やかな天候に恵まれ、前久昌寺住職・豊岳明秀の一周忌(小祥忌)法要が無事円成いたしました。  
  本年最初の久昌通信発行にあたり、良いご報告ができて大変嬉しく、晴れ晴れとした気持ちです。
  一周忌法要は、約二十名の寺院方、十五名の久昌寺役員と親族が参列し、午前十一時頃から厳粛に執り行われました。ご導師をつとめていただいた岡山曹源寺(そうげんじ)ご住職・原田正道(しょうどう)老大師には、明秀和尚をたたえる漢詩の香語(こうご)を唱えていただきました。
腹の底まで染みわたるそのお声は、誠に感動的であり難く、香語の中でも特に
「方好安眠豊岳天(まさによし、あんみんす、ほうがくのてん…豊岳山久昌寺を見守る天で安らかに眠っていることは本当にすばらしい)」は、永く忘れられないお言葉であります。
 また明秀和尚一周忌の祥月命日・二月一日には、地区総代・ご詠歌の会員の方々約四十名が参列し、本堂でご詠歌・おつとめ後、お墓を遥拝いたしました。
最後にその事もあわせてご報告させていただきます。

坂本龍馬のこと

NHKの今年の大河ドラマ「龍馬伝」はなかなかすべり出し順調のようで、世の中はかなりの龍馬ブームと言ってもよいかと思います。
妙心寺派の寺院が多くある福山市の鞆の浦も、「いろは丸」が沈没した場所としていろんなところでたびたび紹介されています。
「いろは丸」は龍馬が設立した日本で最初の貿易会社「亀山社中(後の海援隊)」所有の船で、多くの武器や金塊を積んだまま沈んだという事です。
ところで、現在「坂本龍馬」はとても有名で、日本で知らない人がいない、と言ってもいいのではないでしょうか。
幕末、薩長同盟や大政奉還の実現に尽力したとはいえ、30歳ほどで暗殺された坂本龍馬がなぜこれほど有名なのか不思議だなあと感じ、少し調べてみました。
すると意外な事がわかったのでご紹介いたします。
ある程度予想はしていましたが、やはり、坂本龍馬は生前よりも死後に有名になった人物でした。
龍馬が世に知られるようになったのは、明治の半ば、高知のローカル新聞に龍馬の伝記が掲載され、大評判となった事がきっかけです。
しかしこれだけでは龍馬はあくまで「知る人ぞ知る」人物にしか過ぎませんでした。
龍馬がさらに有名になった次のブームは日露戦争時でした。
当時世界最強と言われたバルチック艦隊を相手にした日本海海戦の直前に、龍馬が皇后の夢枕に立ち、「日本海軍は絶対勝てます」と語ったという話が全国紙に掲載されたのです。
皇后ははじめ夢枕に立ったこの人物を知らなかったそうですが、当時の宮内大臣が、龍馬の写真を見せたところ、間違いなくこの人物だということになったそうです。
これで一気に坂本龍馬は全国区の人物になったのです。
大河ドラマは面白いけれど、龍馬を有名にしたのが日露戦争だったとは、少し興ざめ、という気がしないでもないですね。