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久昌通信


久昌通信164号

一つあれば事足りる鍋の米をとぐ

サッカーの日本代表すごかったですね。残念ながらPK負けでベスト8には届きませんでしたが、久々に明るいニュースで日本中が包まれましたね。
表題は山頭火の俳句です。先月に引き続いて大山氏の講演をご紹介します。それを聴きながらこの俳句を味わっていただきましょう。


…食事が済むと山頭火が「澄太君、せっかく来てくれたのにあい済まんが、独り者は後片付けをせにゃならん。雑誌でも読みながら待っといてくれ。」と言いながら食器を持って土間におりました。隅にゆがんだバケツがあります。それで洗って拭いて棚へ伏せる。よく見ると其の水が濁っておる。米のとぎ汁を捨てずにそれで洗うとる。それが済むと「ついでに掃除をするからちょっと待て」と言う。今度はそれが雑巾バケツであります。やはり禅僧らしく尻からげをし、たすきをかけて、とっとことっとこ縁や柱や敷居をふきまくる。次はそのバケツをさげて裏木戸を開けて出て行く。姿は見えなくなりましたが声が聞こえるんです。菜園が少々できとるようで、ほうれん草やねぎや春菊やら畑のものを呼ぶんですな。「久しぶりにええものがあるからそらやるぞ」と話しかけておる。やっぱり詩人だなあと思いました。2・3升の水を井戸で汲んで、米をとぎ食器を洗い拭き掃除をし、最後は肥料。これを見たり聞いたりして彼の事がすっかり好きになってしまいました。と言うのは、私が昭和四年からこの仏通寺でお世話になって、老師様に「三年や五年で悟れるものではないがの大山君、仏通寺へ来たらどうか一滴の水でも大切にするように」といつも言われておったのを彼がやっておるんです。
その晩色々話した事はもう忘れました。翌朝早起きですな、山頭火は。私も顔を洗おうと思い、うらの井戸の所へ行くと洗面器が無い。どうしたもんかと思っておると、山頭火は鍋を持ってきてこれで洗えと言う。「あんたこれはゆうべ湯豆腐をたいたあれじゃろう。「うんそうじゃ、あれじゃ」「あんた良寛さんのようにこれでフンドシを洗よんじゃないかな」「いやそんなこたあありゃせん」さあどうでしょうか(笑)…



精進(しょうじん)

六波羅蜜の4番目が『精進』です。
 「精進」は、現在では「一生懸命頑張る」という意味で、一般的に広く使われている言葉ですが、もともとは仏教のなかでも、最も大切な意味をもつ言葉の一つです。
 現代の多くの人は、『精進』と聞いて、何を一番に思い浮かべるか?といえば、『精進料理』でしょう。広辞苑(第二版)で『精進』を調べてみると、三番めに『肉食せず、菜食すること』とあります。
 喪(も)に服する目的などで、何日も何ヶ月も菜食をするというのは、なかなかできない尊いことです。しかし精進料理イコール菜食かといえば、そうとも言えないと思われます。 
野菜やお米にも命があります。野菜やお米も生き物です。生きているからこそ食べられるのです。死んだ物は、腐ってしまって食べられません。だから他の命を奪わないで生きるのは不可能なのです。
 一番大事な事は、我々は、肉食にしても菜食にしても、他の生物の命を奪って、それをいただかなければ、生きて行けない存在なのだと自覚する事です。
 修行道場にはいったばかりの頃(四半世紀以上も前です)、ある日の午後、坐禅や作務(さむ…道場での掃除や農作業)で疲労困憊(ひろうこんぱい)し、眠くてしょうがない。このままでは倒れてしまうな、と思ったとき、ようやく薬石(やくせき・夕飯の事)の時間になりました。道場での食事ですから、麦飯にちょっとした野菜の汁ぐらいです。それでも夢中になって食べると、眠気がとれてきて、身体の中から力が沸いてきて、その後また始まる坐禅にむけて、「よーし、やるぞ」という元気が出てきたのです。
 飽食(ほうしょく)の時代に育った私達は、ものを食べると眠くなる、と信じている人が多いようですが、むしろその逆で、食べると目が覚めるのです。食べたあと頑張る力を得るために、人間は食べるのだ、ということにこの時初めて気が付いたのです。精進料理の本当の意味はここの所にある、精進のための料理なのだ、と今はそういう風に感じています。