
中国の政治家。1921年中国共産党創立に参加、25年農村の組織工作を開始し、また蒋介石率いる中国国民党とたもとを分かった後は、朱徳と最初の共産党軍(紅軍)を組織。31年江西の瑞金に最初の中華ソヴィエト共和国を樹立し、34年国民党の攻撃から逃れて長征を開始、35年の遵義会議で党内における指導権を確立。36年延安に到達。折から始まった日中戦争では国民党と連合(国共合作)し、抗戦に従い、党勢を拡大、戦後、再び国民党と対立すると、人民解放軍を指揮して49年北京に入り、中華人民共和国を建設。54年から国家主席、1958年から開始された「第2次5か年計画(大躍進政策)」が失敗すると、その責任を問われて、59年その地位を劉少奇に譲った(党主席は留任)。ところが、1965年文芸批判を皮切りに、現政府執行部に対する“資本主義的”であるとの批判が高まり、それは、紅衛兵と呼ばれる、毛沢東路線を擁護する学生運動へと発展していった(66)。毛沢東はこの反政府運動を「造反有理」(反対するにはわけがある)と、公然と支持、やがて軍民あげての権力闘争に発展した。この運動を「プロレタリア文化大革命」という。毛沢東思想に基づいて社会主義思想を徹底させようというこの運動は、小中学生にまで及び、古い思想・習慣・風俗を一掃しようとする大きなうねりとなった。紅衛兵らは『毛沢東語録』を片手に劉少奇らの反毛沢東派を、資本主義の復活を謀るろうとする「実権派」と呼んで激烈な攻撃を展開、多くの文化人・政治家・軍人が粛正され、69年毛沢東は権力の座に返り咲いた。この文化大革命は、世界中の学生運動などに多大な影響を与え、毛沢東は彼らの精神的リーダーとなったが、文革が引き起こした混乱は、中国の国際的孤立と、経済的沈滞を招き、1976年毛沢東が死すと、文革路線は、後を継いだ華国峰によって否定されることになる。