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| 「古代ローマのインペリウムについて」 |
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I.imperiumの起源・職能 「imperium」,i,n. 1.命令、指図 2.権力 3.支配、統治 (pl.)
帝王としての行為、主権者の命令、君命 4.職権、5.兵権、軍隊、指揮権、命令権 6.文官の職権 7.役人、官吏 8.指揮官、司令官 9.国、国家、領土
辞書(研究社『羅和辞典』)でimperiumという言葉をひくと、このように名詞としては異例に多くの意味が並んでいる。このことからも分かるのだが、imperiumとは通常の歴史概説書でよく見掛ける「最高指揮権」とか、「命令権」などという単純な概念では表現できない、一種独特な意味合いを持っていた言葉である。これから、ローマの政治思想を端的に特徴づけた、「imperium」という概念について考えてゆきたい。
(一)起源
imperiumはローマ初期の原始村落共同体の中で祭祀の長である「王」(rex)が持った、原初的・宗教的(呪術的)な意味で人民を支配し、共同体を戦勝に導く、支配者に内在する権力であると考えられていた。この権力の総体である「imperium」が王を起源に持つことは、imperiumの重要な要素のひとつである軍事上の総指揮権を王が持っていたことから証明できる。たとえば、王は戦争遂行のためローマ市外へ出るときに、imperiumが空白状態になるローマに「母市プラエトル」(praetor urbi)を残し、凱旋者はのちのちまで王の服装をする習わしであった。また後述するが、凱旋者についてはカエサルの頃まで「鳥占い権」(auscipium,auscipia)を持たないものは凱旋式を行なうことができなかったので、凱旋者は軍指揮権とともに神官としての性格をも併せ持っていたことが分かる。やはりimperiumの起源は「王」にあったようである。
imperiumを象徴するファスケース(fasces 斧のまわりに棒をたばねたもの、コンスルの職権の象徴)はエトルリア都市国家の首長(lauch(u)me)が生殺与奪の大権を象徴するために持ったものが起源であるが、"imperium"の広範な概念は、どうやらローマ固有のものらしい。
imperiumの概念自体も変化をするが、共和政盛期の最も「標準的」なimperiumの形態について考えてみる。
"imperium"の大まかな意味は、前節に挙げたとおりであるが、定義するならば、「絶対的・固定的な意味で確定的な至上権、理念上同一のものであり(原則として)各職務には分かれず、当初は段階付けもなかった。すなわち、国家首長の、全てを包括する命令権、その権限全体」ということができよう。これに対して、ある公職者(magistratus)が持つ国家権力は「職務権限」(potestas)であり、imperiumとははっきり区別されるものであった。たとえば、監察官(censor)は非常な名誉の伴なう高級役職であったが、戸口調査のような限定された任務を行なうpotestasは持ったが、imperiumは持たなかった。
次にimperium保持者が果たすことのできた個々の職能について考えてみる。
第一に、前節でも触れたように、imperium保持者は占い・犠牲・奉納物・神殿造営など「王」権から直接受け継いだと見られる広範な宗教的権限を持った。中でも「鳥占い」(auscipium)の権限は重要であった。ローマでは古来より鳥の飛び方・餌のついばみ方などで国事の吉凶を占う習慣がある。ローマの建国者とされるロムルス(Romulus)が双子の弟レムス(Remus)に勝利し、王となったのもこの「鳥占い」によるとの伝説があるが、このことからもこの「鳥占い」がローマ人にとっていかに重要なものであったことが分かる。もちろんimperium=auscipiumではないが、この「鳥占い」権がimperiumの重要な要素であったことは確かなようである。
第二に、imperiumの軍事的権限について考察する。国家危急の大事である戦時こそ、国家大権としてのimperiumの姿が端的に現われてくる。ローマの公職者は軍隊編成(徴兵)権・軍隊総指揮権・(当初は高級将校任命権も)を持ったが、ローマ的公職者権限観は「文武一体」という考え方であるので、これは当然のことであろう。これらに付属する権限としては、凱旋式を行なう権利、インペラートル(imperator)の称号を帯びる権利、外国と「適応にして拘束力をもつ」条約を全人民の名によって締結する権利があった。(宣戦布告と講和条約締結の決定権は本来は民会に属するものであったが、imperium保持者は元老院の承認を得てこれを行うことができた。)
第三に、内政に関する事項をまとめてみる。
まず民会との関係に関しては、imperium保持者は民会を召集しこれに決議のための提案をする権限を持った。また、元老院に対してもほぼ同様の権限を有した。
司法関係では、訴訟を管理し、告訴に対して私人としての仲裁者である「審判人」を定めた。imperiumのこの任務には当初執政官(consul)、ついで法務官(praetor)が当たった。(第II章参照)また、このimperium保持者は、国家権力と自らの命令を尊重させるために「懲戒権」(exercitioまたはcoercitio)を持った。(ただし、重大なものに関しては「上訴権」(provocatio)があり、この権力の乱用には歯止めがかかっていた。)
その他、副次的な権限ではあるがimperium保持者は自己の補佐官・部下などを自ら指名し、軍事面では一定の「懲戒権」を有する将校・下士官を指名した。また、自分のimperium行使の権限を他者に委託(mandare)することも可能であった。
その他、imperiumに付属する権限としては、様々な栄誉権や、ファスケースなどの職務標識を帯びる権利などがあるが、ここでは詳しくは触れない。
II.各公職者のimperium
普通「執政官」とか「統領」とか訳されるコンスルは、ローマ国政上の最高序列に位置し、かつての「王」(rex)の直接的後継者であると見なされる。王は本来はローマ唯一の「公職者」(または「政務官」magistratus)であったが、その後必要に応じて各種の公職者が設置されることになる。
コンスルはI章で述べたimperiumの諸権限のうち、元老院会議・選挙民会などの召集と主催権、(国家首長として戦時に)軍隊の最高指揮権を持った。その他国政全般においてコンスルが関与したことは言うまでもない。
「コンスル代理」のことであり、コンスルの代理として属州統治や属州での戦争指揮などを行ない、属州ではコンスル同様の広範なimperiumを帯びた。プロコンスルについては、のちにポンペイウスやカエサルの権限を考える際にもう一度言及する。
「独裁官」たるディクタトルは破格の性格を持っていたが、恐らくはローマ最高公職として最古の機能を持っていた。ディクタトルは国家が異常な危機にさらされた場合,imperiumを持つコンスルによって指名されるものである。彼は最高の公職権限を単独で掌握し、コンスルでさえもが彼のimperiumに服した。ディクタトルは最大限6か月の任期内に限り、一時的ながらかつての「王」(rex)の完全にして無制約なimperiumを再現した。
何らかの理由でコンスルやディクタトルの最高権力を後任者に直接引き渡すことができない場合、元老院の貴族系議員の中からくじびきで順番を決めて、インテルレークス(中間王)一名を立てた。これは「王」(rex)の名称からも分かるように、非常に古い形態を持ち、まさに「王」の再現として現われるものであった。彼の持つimperiumは軍事・内政ともに完全なものであったが、その任期は5日間に限られ、imperiumの本質的な行使よりも「鳥占い権」を含め、法理上の意味合いが強く、その本分は次のコンスルの適切な選挙にあった。このインテルレークス制度は、ディクタトルとともに共和政内部では例外的な存在であったが、それだけに古来のimperiumの姿を忠実に再現していると考えられる。
プラエトル(法務官)はもともと王やコンスルが戦争などのためにローマ市外へ出るときに、imperiumが欠如するローマ市内に残した「母市プラエトル」(praetor
urbi)に由来するものであるから,当然imperiumを持った。プラエトルは理論的にはコンスルと対等であるが,両者が競合する場合にはコンスルに服した。また、その起源からも分かるように、コンスルが理論上全ローマ領土にimperiumを行使し得るのに対してプラエトルは限られた「職務領域」(provincia)内でしかimperiumを持ち得なかった。そして、その職務内容としては、母市プラエトルはローマ市内の司法・行政を行ない、属州総督のプラエトルは担当属州内での軍指揮権・懲罰権・裁判を含む完全無制約なimperiumを持った。
護民官は身体の神聖不可侵権・救済権など様々な広範な権力を持ってはいたが、それが国家の公職ではない(護民官は「平民」だけを拘束する)という建前からimperiumは持ち得なかった。しかし、この護民官権限はアウグストゥスの元首政(principatus)に至って、形を変えてimperiumの中に取り込まれることになる。このことについては後述する。
共和政ローマには上述のほかに、監察官(ケンソル censor)、造営官(アエディリス aedilis)などの国家公職があったが、彼らはその限られた職務ゆえに「職務権限」(potestas)は持ち得てもimperiumは持つことができなかった。
III.imperiumの制限 imperiumは元来王権に起源を持つ、絶対的至上権であったが、年月を経るにしたがって様々な制限を受けるようになってきた。もちろん広範なimperiumの権限と比較すれば取るに足らない制限も多いが、この制限事項はローマ共和政発展の上で重要なテーマであると考えられるので、ここでは特に一章を設けて考察してみたい。 imperiumを制限する諸勢力のうちで、何といっても最大のものは護民官権限である。護民官はかつてその「救済権」(auxilium ferendi)によって公職者に対抗して市民を守り、干渉権(intercessio)によって公職者の職務遂行を妨害することができた。さらにのちには、その「拒否権」(veto)はコンスルまでをも服従させるようになった。ひとつの古代国家が、自らに対する抵抗権を自らの体内に持っていたということはきわめて重要なことで、この点共和政ローマはオリエント専制国家とは明らかに区別される。(このことについては、のちに『imperiumの崩壊』および『ローマ市民共同体とimperium』の章でもう一度考えることにする。) 次にもともとimperiumに内在する制限力を考える。 共和政期におけるimperium保持者は原則として市民によって適法な選挙で選出されたものであったから、その母体であるローマ市民、すなわちローマ市民権(とその市民権に含まれる諸権利)によっていくつかの制限を受けた。その最も顕著なものはimperium保持者の「懲戒権」(exercitio)に対する「上訴権」(provocatio)であった。この権利によりローマ市民は公職者が課す笞刑や死刑(のちには罰金刑も)に対して、ひとまずその執行を停止させ、引き続き所轄法廷か民会での判決を得ることができた。しかし、ディクタトルおよび凱旋者の凱旋式当日は、原則としてimperium行使に関して上訴権による制限を受けなかったし、特別訴訟手続きを行なうimperium保持者についても同様であった。 また、これは本質的には他者がimperiumに対して加える制限ではないが、コンスル、プラエトルなどのほとんどの公職者が複数同僚制をとり、それぞれが他の同僚のimperiumを規制したことも忘れてはならない。それに加えて同じimperium保持者であっても、たとえばコンスルがプラエトルより上級のimperiumを持ったように、上級公職者が下級公職者の持つimperiumを制限することもできた。 もうひとつには「職務領域」(provincia)の制度がある。これは母市プラエトルのimperiumはローマ市領域内に限るとか、属州総督(proconsul)のimperiumはその担当属州に限るとかいうもので、imperiumに対する行使の制限があった。 またもちろん、職務期間(任期)による制限も忘れてはならない。 IV.imperiumの変質 I〜III章で述べてきたimperiumはもっぱら王政期〜共和政盛期の概念であった。しかし、共和政も末期、いわゆる「内乱の一世紀」の時代になるとimperiumのあり方も大きな変化を遂げることとなる。この章ではその変化を時代順に追ってみたい。
ティベリウス=グラックス(TiberiusSemproniusGracchus)の土地改革が始まったのは紀元前133年のことであった。この改革は元老院保守派の攻撃にあって挫折し、ティベリウスは悲劇的な最後を遂げ る。ティベリウスは「護民官権限」によりこの改革の実施を目指したのであり、その意味で直接imperiumとは関係がなかった。しかし、ここで重要になるのは彼の改革そのものよりも、彼がスキピオ=ナシカ (ScipioNasica)らの元老院強硬派によって不当な死を遂げたということである。すなわち、前章で触れたようにimperiumに対する最高の制限力であった「護民官権限」の、その最たる「身体不可侵権」が侵されたということが問題になるのである。これは弟のガイウス(Gaius Sempronius Gracchus)の場合も同様であるがこの前133年の悲劇以来、imperiumに対する「抑止力」は消滅し、政治的恐慌とimperiumの質的変化が現われてくるのである。
グラックス改革失敗後の大混乱の中で、民衆派のマリウスは7度目のコンスルとなり暴力的な恐怖政治を行なった。彼は内政上は何ら注目すべき政策は行なわなかったが、「マリウス改革」と呼ばれる軍制改革はやがて大きな意味を持ってくる。彼はユグルタ戦争とキンブリ戦争の軍隊編成の際、兵役義務を負う市民の召集軍というローマの兵制の原則を捨て、農民の義務兵役の代りに貧困市民(もちろん「市民権」を持たないものは正規の「軍団」兵にはなれない)を募兵として兵籍に加えた。これは正常な徴兵が不可能な程度にまでローマ市民共同体が分解していたことを示唆する。すなわち、原則的なimperiumや「ローマ国家」(res publica)がよって立つべき基盤が既に崩壊していたことが分かる。したがって、この時期以後はimperiumをも含めて、ローマの政体は全く以前とは異なったものとして把握する必要がある。これ以後しだいに巨大化する「庇護関係」(clientera)はひとつのimperiumのもとに団結していた「ローマ国家」(res publica)を、各将軍を長とするいくつものピラミッド的権力関係に変え、やがて共和政は全く崩壊する。 共和国は混乱に混乱を重ね、やがてスッラは自らの「庇護民」(cliens)で構成した軍隊を率いてローマへ進軍し占領するという事態にまで発展した。そして彼は自らを独裁官に指名させ、無制約のimperiumを手に入れることになったが、ここで注目したいのは彼がこのimperiumを形式的には全く手落ちのない形で獲得していることである。これは彼がのちに理想を実現し、政界から引退したことからも分かるが、彼の時点では少なくとも共和政の古き良き「理念」だけは生きていたということが言えよう。しかし、それも長くは続かなかった。
ポンペイウスこそは、ローマ共和政が数百年かかって築きあげてきた共和政理念に真っ向から立ち向かった最初の人物であった。彼の「反ローマ的行動」を列挙してみると、彼は全く自分の権限で私兵軍団を結成し、スッラのイタリア上陸の際に馳せ参じ、強引にスッラ傘下の一部隊となった。勝利を重ねた後、全くの私人でしたがって何ら法律上のimperiumは持っていないのにもかかわらず、ローマの国家首長としてのimperium保持者のみが受けることができる「大将軍」(インペラートル imperator)の称号と凱旋式の栄誉を受け、そのうえ「偉大なる」(Magnus)という添え名まで得た。弱体化したローマ当局はこれを承認せざるをえず、ここに国家公職イコールimperium保持者という、最後のそして最大の共和政理念が打ち砕かれた。この後にもポンペイウスはヒスパニアでセルトリウスの乱を平定した後、前代未聞の二度目の凱旋式を挙行し、最初の公職としてコンスル職を強要した。共和政理念は全く地に堕ちた。 その後のポンペイウスの権力伸長を見てみよう。 前67年にポンペイウスは海賊討伐のために未曾有の非常大権を獲得した。その内容は、
という巨大なものであった。また、のちにミトリダテス戦争に際しては属州アシア(現トルコ北部)全体の無期軍事指揮権と諸外国との条約締結権までをも手に入れた。この中で、特にDにおいて、人民に選挙されたものだけが公職者足りえるという共和政原則もまた踏みにじられた。しかし、不思議なことにポンペイウスにはローマの専制支配者になろうという考えはなく、その名誉のみに満足していたようである。その証拠に、のち彼はいともあっさりとこれらの大権を放棄している。もっとも彼には初めから帝国理念など無いようで、もっぱら個人的栄誉だけのために共和政をもてあそんだ感がある。その点でポンペイウスは優れた軍司令官ということはできても、優れた政治家ということはできないかもしれない。彼の悲劇的な死はそれを物語っているように思えるが・・・。しかし、考えてみれば、良き政治家=良き軍司令官という文武一致の理念は、理想としてもまた国政上もローマ共和政の本質であった。そう考えればポンペイウスはその点ですでに共和政とは相容れない存在であり、むしろカエサルの方にこそ共和政の理念をうかがうことができるのは、歴史のパラドックスであろうか。そのカエサルこそが共和政を葬ることになるのだから。
ポンペイウスさえなしえなかった、共和政を最終的に破壊した人物がガイウス=ユリウス=カエサル(Gaius Julius Caesar)である。ポンペイウスがローマ的伝統を無視し、何の経歴もなく突然コンスルに就任したのに対し、カエサルは古来からの貴族の出身でもあり、(手段に問題はないとは言えないが)一応手順通り公職の順序を踏んで、前59年、コンスルとしてポンペイウス・クラッススとともに第1回三頭政治同盟を結ぶことによって、一躍ローマ政界の中心に躍り出てきた。 カエサルは1年間のコンスル職を勤め終えると、まず三頭の取り決めにより「アルプスのこちら側のガリア」(Gallia Cisalpina)で5年間の軍指揮権を与えられた。普通属州長官の任期は1年。5年というのは異例の長さである。しかし、この「ガリア戦争」を通じてカエサルは最強のクリエンテーラを育てあげていく。これが何よりも、彼の勝利の原因であった。 前56年、北イタリアのルカ(Luca)で三頭による会談が行なわれ、ここに公然と三人の独裁が開始される。 ガリア戦争を通じて決定的な地位を築きあげたカエサルは、クラッススの死後ポンペイウスを破り、次第に反共和政的な特権を身につけていく。カエサルはガリア戦争中から、ガリア原住民(ケルト人および一部のゲルマン人)に対しては全くの独裁者として振る舞っていたが、帰還後は前48・46・45年のコンスルとして合法的権力を得て、前45年には向こう10年間のコンスル、そして前49年秋にはディクタトル、前46年向こう10年間のディクタトル、前44年終身ディクタトルと、次々と非合法の権力を「合法的」に獲得した。その他にも風紀監督権・貴族指名権・軍隊単独指揮権(およびインペラートルの称号)・国庫単独利用権・凱旋式服と月桂冠の常時着用権等々、数え切れないほどの独裁権力を手にする。これらはもう古来のimperiumの概念ではかり切れるものでなく、ここに共和政は完全に崩壊したと言える。しかし、今挙げた諸権限は、まだあくまでも共和政の枠内の役職・権限であり、「王」のimperiumを考えた場合納得できないものでもなかった。しかし、クインティリース月の「ユリウス月」への改称、誕生日の帝国祭日への昇格、主だった戦勝記念日の国家祝日化、ローマ人の祭りを一日延長してカエサルに捧げること…などの一連の措置は、今までのローマには存在しなかったことであり、それはやがてカエサル自身の神格化という、ヘレニズム的専制君主概念へとつながっていく。しかし、imperiumという言葉は古くは「王」、そして共和政期は「公職者」の権限としてローマ市民に選ばれた国家公職者のみが持ちえた権限全体についてのみ言える言葉であった。だが、カエサルの神格化=オリエント・ヘレニズム的専制君主化は、全くもってそのimperium概念とは相容れないものである。したがって、共和政の崩壊とともにimperiumも消滅したといってよいだろう。 しかし、カエサルは、前44年3月15日ブルートゥスらの共和政復活主義者の手にかかって暗殺され、結局改革は中途半端になってしまう。imperiumの行く末はアウグストゥスの登場をもって語られなければなるまい。 V.元首政期のimperium 前章で述べたように、共和政期末(いわゆる「内乱の一世紀」)の政治家や軍人はもはやローマ古来のimperiumの本質的概念に縛られることなく、独自の権限で全く異質の権力を振るった。そしてimperiumの概念はカエサルの神格化にともなって死んだとも言った。しかし、カエサルの暗殺からアントニウス(Antonius)とオクタウィアヌス(Octavianus)の抗争を経て、その反動であろうか、一時的に(あくまでも形式的にではあるが)古来のimperiumの概念が息を吹き返す。それがアウグストゥス(Augustus)の元首政(Principatus)であり、それはやがて「人類史上最も幸福な時代」(ギボン『ローマ帝国衰亡史』)と言われる『ローマの平和』(pax Romana)へとつながっていく。さて、それでは元首政期の皇帝権力、特にアウグストゥスのそれは一体どのような構造を持っていたのであろうか。 カエサルの養子となり、その富と、さらに重要なことにはそのクリエンテース(庇護民)を引き継いだオクタウィアヌスは、紀元前43年の民会決議によって、アントニウス・レピドゥスとともに「国家再建三人委員会」としてカエサル死後の混乱収拾に乗り出した。このいわゆる「第2回三頭政治」は彼の養父の第1回三頭政治がきわめて私的な密約であったのに対し、形式的には「合法的」な政治形態であった。とにかく、ここで各委員に与えられた権限は、あくまでも共和政的なimperiumであった。 やがてオクタウィアヌスはレピドゥスを失脚させアントニウスを破り、プトレマイオス朝エジプト王国を征服し、養父同様ローマでは並ぶものなき地位に上りつめる。しかし彼はカエサルの失敗に鑑みて、専制体制を打ち立てるよりは(少なくとも外見上は)共和政を復活させるほうが得策であると考えた。そして、彼が苦肉の策としてあみ出したものが「元首政」であったのだ。 オクタウィアヌスは名目的になった三人委員会のimperiumを最後まで手放さず、前31年からは毎年(一応形式通りに)コンスルに就任することにした。そして内戦後は軍指揮権を中心とするimperiumを正当化するために「一般的同意」(consensus universorum)という概念を持ち出してきた。彼の権力は衆人が期待し認めるところだというのだ。しかし、何よりも重要なことは彼が前36年に護民官権限のうち身体不可侵権を得、前30年には救済権を獲得したことであろう。III章で述べたように、護民官権限はimperiumに対する、最大かつ最高の制限力である。それが今、こともあろうに当のimperium保持者の手に握られてしまった。ここにまさに共和政公職者とは全く違った、新たな「権力」のあり方が生まれたのだ。そして、いよいよ前27年がやって来る。この年彼は、第2回三頭政治中の非合法的措置を前28年末をもって廃止し、国政の指導権を元老院と国民に返還することを申し出た。もちろん事前の根回しの結果だが、元老院はこの申し出を拒否し、彼におもねって「尊厳者」(アウグストゥス Augustus)の称号を贈り(これをもって「帝政」のはじめとされる)、両者の妥協という形でのあの属州分担統治制が生まれる。すなわち、平定済みの「安全な」属州(アフリカ、ギリシアなど)は国民と元老院に、また外敵にさらされている辺境や治安の悪い属州はアウグストゥスに属することとなり、彼は属州総督として「プロコンスル級imperium」(imperium proconsulare)を手にする。しかし、これは全くの欺瞞であった。つまり、アウグストゥスは非常大権を共和国ローマに返還し、いわば合法的に「皇帝属州」の「プロコンスル級imperium」を手に入れる。そして、その裏では彼は毎年続けてコンスルに就任しているので当然「コンスル級imperium」(inperium consulare)を有し、また元老院議員中の「第一人者」(princeps)でもあるので、元老院属州においてもきわめて合法的にimperiumを行使し得た。もちろん属州だけでなく「ローマ市域内」(ポーメリウム)も同様である。こうして彼は全く共和国の法にのっとって合法的に、共和政の原理を崩すことなく、「ローマ帝国」全体を掌握する、彼の威光の前に数々の矛盾は細かい措置で正当化されてしまった。たとえば「ローマ市域内」では本来消滅するはずの「プロコンスル級imperium」を市域外ではいつでも復活できるようにするなどの特例的措置である。しかし、これが後のディオクレティアヌスの「専制君主政」(dominatus)と区別されるのは、ひとつがこれがアウグストゥス個人のために考え出されたものであって決して制度的なものではなかったということにある。すなわち、彼は自分が混乱を収拾したということに起因する「権威」(auctritas)によって、公職機構とは全く別に個人的権限としての諸権限を与えられていたということである。したがってコンスルなどの共和政時代からの公職者組織は、帝政期にも決して消滅はしなかった。しかし、もちろんこの措置はやがて「制度」に変わっていく。(ちなみに「エジプト」はアウグストゥス家の個人的財産とされた。) 前23年、アウグストゥスはコンスル職に留まることの不利を知り、それを辞任するが、代りに完全な護民官権限と「上級プロコンスル級imperium」(imperium proconsulare maius)が与えられ、前19年にはコンスル職に就くことなく終身の「コンスル級imperium」を獲得した。ここにいたって元首政はほぼ完成するが、その権力構造をもう一度確認しておこう。アウグストゥスは「ローマ市域内」(ポーメリウム)では「護民官権限」(potestas tribunus plebis)と「コンスル級imperium」によって、そしてポーメリウム外では「上級プロコンスル級imperium」によって、すなわち「帝国全土」にわたる支配権を持った。 その他に彼が帯びた諸権限としては、公職者推薦権、皇帝裁判権、貨幣発行権などがある。 アウグストゥスのこれらの権力(これをもはやimperiumと呼ぶことはできないが)は次々と「皇帝」に引き継がれていき、ローマは繁栄の時期を迎える。しかし、瀕死の状態に置かれながらもimperiumはまだ死んではいない。では誰がimperiumを殺したか。 VI.imperiumの崩壊 元首政期に細々とその余生を送っていたimperiumも、紀元284年に即位したディオクレティアヌス(Diocretianus)の「専制君主政」(dominatus)の開始とともに名実ともにその生涯を終える。もちろんディオクレティアヌス一人に責任を追わせることはできない。細々と命を保ったimperiumも3世紀の軍人皇帝の時代になるとその所在さえはっきりとはせず、混乱を極め、結果としてディオクレティアヌスの支配に行き着く。したがってディオクレティアヌス以後のローマ皇帝権力はもうimperiumとは呼べない。しかし、imperiumとの比較のためにその概略について触れてみたい。 3世紀に出現した「皇帝=神」「皇帝は法にしばられない」という理念により、ドミナートゥス期の皇帝は、唯一の立法者であり、勅書・勅答・裁決などを通して自らの「法」を執行し、また、最高裁判権・下級法廷介入権などを持っていた。次に「役人」(もはや「公職者」とは呼べない)の任命・解職権を持ち、グラティアヌス帝(367〜383)までは「大神官」(pontifex maximus)として、全祭儀・祭司の監督権を持った。そして、元首政以来の最高軍指揮権・護民官諸権限・貨幣鋳造権などももちろん保持していた。こうやって見てくると、その実態も元首政時代とそれほど大きな差は無いように思われる。しかし、気をつけなければならないことは、元首政期には形式的ではあったが多少は存在した、制度として皇帝権を制限するものが、専制君主政期においては全く消滅したということである。そして、皇帝のオリエント=ヘレニズム的神格化は、発展しつつあったキリスト教との間に緊張関係を生み、弾圧が行なわれ、キリスト教と妥協以後の皇帝権力は、かつての人民の同意に基づくimperiumから、「神の同意」あるいは「神から与えられた」権力へと、その発生から全く別のものになってしまった。こうして「古代」は幕を閉じるのである。 VII.imperiumとローマ市民共同体 前章まで、imperiumについてその起源から崩壊まで、それを主に政治家としてのimperium保有者の立場に立って述べてきた。本章ではそれを逆に、彼らがそのようなimperiumを持ちえた社会−その状態はいかなるものだったか−に光を当ててimperiumを裏側から眺めてみたい。 ローマ史家の弓削達氏はその著書『地中海世界とローマ帝国』(岩波書店)の中で、「地中海世界」とは単なる地理的区分や自然環境による区分ではなく、ひとつの歴史的世界であると言う。すなわち、この「地中海世界」には、お互いがお互いに影響を及ぼしあう「古典古代的ポリス=市民共同体」が存在し、その存在こそが「地中海世界」の歴史的必然性を特徴づけており、ローマが「地中海世界」を統一し得たのも、その市民共同体の分解と復元によるものだと説明する。以下、弓削氏の記述に従ってimperiumの存在基盤であった「ローマ市民共同体」(res publica)について考えてみたい。 まず、「共同体」とは何か?−この問題について弓削氏は、ソ連の歴史学者シュタエルマン女史の説を引用しつつ次のように説明する。 「共同体とは、歴史的に形成され、内部に閉鎖的で、社会的に同質の人間集団である。その特徴として、共同体は、災害のとき隣人に助けを求める権利などの社会的統一を持ち、共同財産(牧草地、森林など)の集団利用・共同労苦などにより集団的団結を持つ。さらにそれは何らかの統治機構を持ち、共同財産・私的利用の土地に対する統制権を行使する。そして、共通したメンタリティを持ち、外部の世界に対して一単位として行動する。」 すなわちこれが最もプリミティヴな形での村落共同体であり、それは構成員がお互いに平等な世界であった。しかし、 「その原始村落共同体は、私的土地所有・奴隷所有・市場などの発展による社会的階層分化によって分解していく。そして、やがてその分解した村落共同体が結合して古典古代的ポリス、すなわち『市民共同体』が生まれる。」 そして、このような市民共同体は、 「社会的発展のために、絶えず分解を続けるが、(特にギリシアのポリスにその性格が強いが)「慢性的戦争状態」のため、そのなかで生き抜く力として、自衛力としての分解阻止力・復元力が働く。」 それをローマの場合に当てはめれば、 「パトリキ(貴族 patrici)とプレブス(平民 plebs)の対立は社会的分化の証拠であり、ローマ社会は分解を続ける市民共同体(res publica)であった。そして、それに対する分解阻止・復元力としては護民官制度・平民会・一二表法・リキニウス=セクスティウス法・グラックス兄弟の改革などがあった。しかし、私的土地所有者が蚕食した共同体所有地を共同体に返還しようとせず、改革が不可能となり、最後の手段として海外植民を試みるようになるが、ギリシアのポリスの場合、植民市が母市から独立し、母市と戦争状態に陥るというような新たな緊張を生み出したため、ポリスは分解を阻止することができなかった。しかしローマは植民市民もトリブス(地域・部族)に取り込み、あるいは市民権を与えたので、それはローマ市民共同体の地理的・人的な外延的な拡大となった。それは他の共同体に影響を与え、その分解を促進する。このようにして成立したのが『地中海世界』であり、それこそがローマがそれを統一し得た理由である。」 ということになる。さて、今度はこの市民共同体を母体としてimperiumの問題を考えてみよう。 「ローマ」=「市民共同体」と規定しうるならば、その本質であるimperiumもその枠の中で考えなければならない。すなわち、imperiumとは共同体の中で同等者たる市民の同意によって成立した権能であるのだから、その市民共同体が崩壊するときimperiumも消滅せざるをえない。貨幣経済の発展〜市場拡大、都市の発展〜階層分化〜衰退などにより共同体の分化が進み、その阻止・復元力が失われてゆくとき、当初はまだローマ市民共同体の「第一人者」(princeps)として出発したはずの皇帝権力は既に共同体から分離し、共同体の支持を必要としないまでに強大化していた。また、市民共同体自体も既に有名無実化しており、皇帝権の基盤は、大土地所有者・都市上層などの「上層階級」(honestiores)であり、「下層階級」(humiliores)にとって皇帝は専制君主以外の何者でもなかった。これもまたやはり「ローマ帝国」ではあったかもしれないが、皇帝権力は「市民共同体」から分離したときimperiumであることをやめたのである。 VIII.ギリシアの権力思想 I〜VII章でローマのimperiumに関する考察を終えた。ここで蛇足ではあるが、最後に一言ギリシアにおける権力のあり方について触れておきたい。というのも、前章で述べたように、「地中海世界」というものを不可分の歴史的世界として捕らえる場合、ローマとともにギリシアについて触れないのは画龍点晴を欠くと思われるからである。 ギリシア人はどうしてもローマ的imperiumの概念を理解することができず、それをファスケースからの連想で『棒の束』などと訳したという。ギリシアでは早くから民主政治が発達したが、それは極端な直接民主政治であり市民の誰もが平等に公職者になり得た。したがって、その権力も「民会」によって大きな制限を加えられ、僭主でさえもがそれを無視できなかった。いわばローマより『先進的』であったのだろう。しかし、それが最終的にギリシアの命とりになるのだから歴史とは皮肉なものである。ともあれ、こういった理由から「ギリシア的権力」と「ローマ的imperium」の直接比較は困難であるので、ここではギリシア文学・思想に現れる「王」のあり方について検討し、のち具体例としてスパルタ王権について考えてみたい。 ホメロスの『オデュッセイア』には数多くの王(イタケーのオデュッセウス、パイアキアのアルキノオスら)が登場するが、彼らは世襲制ではあったが独裁権力は持たず、多くの者の中での第一人者に過ぎず、その裁判権・祭祀権・最高軍事指揮権などもかなり制限されたもので、その後容易に選挙王政や貴族政へと移行するものであった。 次にアリストテレスに例を求めると(『政治学』)、王には5種類あるという。
しかし、この5種類の中にもローマのimperiumに該当する広汎な権力を保持しているものは見当たらないようだ。また、アリストテレスは王権について、 「王の権威は全ての人の自由意志によって認められたもので、恥べき不当な理由によらなければ、人民はそれを変革しようとは思わない。」 「王の絶対権力は、王がその臣下よりすぐれているという事実にのみ基づく。」 「王は法律に縛られない。」 などと述べている。もちろんこれらは待望論であって実際のものではないのであるが、二番目のものがアウグストゥスの「権威」(auctritas)、三番目が専制君主政期の皇帝権力観とよく似ている。 それではギリシア的王権の実態はどのようなものであったか。スパルタ王政の例を挙げてみよう。スパルタは世襲王政をとってはいたが「二人王政」という特殊な形態を持ち、ローマのコンスルとの比較において興味深い。王の権限は狭く、祭祀とエフォロス二名の監視のもとに置かれた軍指揮権を持つのみであった。生死や市民権、反国家犯罪に関する裁判権は長老会が握り、5名のエフォロスと呼ばれる官僚団が軍隊を招集し、規模を決定し、指揮官への下命権を持っていた。彼らはまた民事裁判権を持ち、王の逮捕さえ可能であった。民会も広汎な権限を持ち、宣戦布告は民会の権限で行なわれた。ひと目で王権が大きな制限を受けていたことが分かる。 このような例から分かることは次のような一般論であろうか。すなわち、ギリシアの権力は多くの場所に分散し、お互いがお互いを牽制しあっているように見える。これは古代直接民主政治の理想なのかもしれないが、弱肉強食の古代世界においては大変に危険なことでもあった。相対的に見て、「名」のギリシアに「実」のローマと捕えることができそうである。これはそのままギリシア的「理性主義」(ラショナリズム)とローマの「実用主義」(プラグマティズム)の差ということができるかもしれない。ともかく、地中海世界におけるローマの勝利を、imperiumによるものと考えることもあながち無理ではあるまい。
参考文献一覧
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