| 「GAIUS JULIUS CAESAR」 |
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「ガイウス=ユリウス=カエサル」 第1章
第1章 軍人カエサル
この章では、カエサルの軍人としての資質について考察を加える。(注1)
カエサルは、その生涯に数多くの戦争を戦った。まず、そのうち代表的なものを、時代順に10あげてみよう。
まず最初の戦争は、前80年カエサル20歳のときの、属州アジア(小アジア)での軍務であった。(注2)彼は属州長官マルクス=テルムスの副官としてアジアに赴いたが、ミュティレネ攻略戦において活躍著しく、戦友の命を救った功績で、ローマ軍人の名誉である柏葉冠を授けられた。こうやって、ローマ人貴族として幸先のよいスタートを切った彼ではあったが、この任期中に後述のビテュニア(小アジア北部)王ニコメデスと男色スキャンダルを起こし、彼の名誉は一時大いに失墜した。
カエサルはマリウスの死(前86年)後政権を握ったスッラと対立し、ローマを離れて前78年、22歳のときセルウィウス=イサクリウスにつき従ってキリキア(小アジア南部)へ赴任していたが、まもなくスッラ死去の報に接した。これをチャンス到来と見てとった在ローマの親カエサル派の人々は、カエサルをローマへ呼び帰した。帰還後マルクス=レピドゥスの反乱に参加しようとしたが、形勢不利と見てたもとを分かった。
次に前74年、26歳のとき(あの有名な海賊事件のあと)再び属州アジアに赴き、戦功をあげた。また、彼は前73年以来「軍司令官」の役職に就いているので、当時進行中であったスパルタクス戦争にも何らかの形で関与していたものと思われる。(注3)
その後クァエストル(副官としての財務官)として属州ヒスパニア(スペイン)に行き、その帰途ガリア=キサルピナ(北イタリア)の民衆を扇動したことを除けば、彼はローマ市に留まり、政治家としての活動に忙殺されてゆく。しかし、前61年(39歳)属州長官(プロプラエトル)としてヒスパニア=ウテリオル(スペイン西部)に赴任すると、大西洋沿岸及び島嶼部のケルト人諸部族を征服し、略奪を行 なったが、この時初めて兵士から名誉ある「インペラートル」(imperator
大将軍)の称号を送られている。
前60年にはポンペイウスとクラッススと第一回3頭政治同盟を結び、翌前59年、念願のコンスルとなる。(40歳)そして任期を終えると、前58年長官(プロコンスル)として任地ガリアへ急行した。(注4)前58年3月、ガリアのヘルウェティー族がスイスからフランス方面に向かって移動を開始したのである。ここに8年間に渡るガリア戦争の幕が切って落とされた。カエサルの軍事的天才は、このガリア戦争で最も顕著に現われた。この戦争を通して、ローマは真のヨーロッパの王者へと変身をとげてゆくのである。
戦争における「カエサル」的やり方とは、まさに「アメとムチ」の効果的な使い方であった。カエサルは「アメ」を与えた友好部族(クリエーンス
cliens 、複数形 クリエンテース clientes )を上手に利用し、敵対部族を押えつけることに成功した。彼はガリアにおいて、まずいくつかのクリエーンス部族をつくりあげる。そのやり方は巧妙をきわめている。まず、部族内部の紛争に介入して、その一方をローマの名前と軍事力をもって援助し政権を握らせると、自らのクリエーンスに仕立て上げ、支配地域を広げていったのであった。彼の最大のクリエーンス部族はガリア中央部に住むハエドゥイー族であった。このハエドゥイー族やレーミー族などの親ローマ部族には、軍事援助・穀物供給などと引き換えに様々な援助を惜しむことなく与えたが、敵対し、あるいは敵対するとカエサルの目に映った部族には非常に厳しく当たり、様々な口実を見つけては干渉を行ない、戦端を開く。『ガリア戦記』はその「口実」に満ちあふれている。たとえば、
「じっさい、わが属州は、このような好戦部族であり、ローマ国民の仇敵を無防備な穀倉地帯(属州ガリア=南フランスのこと、大坂)のすぐ隣に持つことになるのだから。」(『ガリア戦記』1−10)
あるいは同盟部族が他部族に迫害されるのは、
「ローマ国民の強大な統治権を考えるなら、カエサルにも国家にも、じつに屈辱的な話ではないかと判断した。」(同1−33)
と言うようなものである。
このように、カエサルはまず何よりも「ローマの利害」を全面に押し出した。たとえそれが「カエサルの利害」の隠れみのであったにしても、それこそが元老院への戦勝報告集である『ガリア戦記』のよって立つ理念であった。そして、実害だけではなく、ブリタンニア遠征の口実がガリア反乱に対するブリタンニア諸部族の援助を疑うものであったり、(4−20)ライン渡河が「将来の不安を除く」ためであったりする(6−9)ように、要するに全く恣意的な行動であったことが分かる。
ガリア戦争は、ウェルキンゲトリクス戦争終了後、いくつかの部族の小反乱を鎮圧することによって終了する。カエサルの略奪と破壊は徹底的で、その後かなり長い間ガリアは自由を求めて立ち上がることはできなかったという。
ガリア戦争終結後、カエサルの二度目のコンスル立候補問題に関して、カエサルとポンペイウスは決裂する。そして、運命のルビコン渡河から内乱開始というシナリオになるわけだが、ここでもカエサルは詳細な記録を残している。それが『内乱記』であるが、ここで語られることは、自分が内乱に踏み切るにはいかに正当な理由があったかということであり、自分は平和を望んでいたのに相手が仕掛けてきたからやむをえず戦ったのだという自己弁護である。ガリア戦争のときと違って、今回の戦争はローマ人−それも名だたる大貴族たち−が相手なのだからカエサルの気の遣い方は大変なもので、その口うるさいまでの自己弁護の言葉は、かえって『内乱記』を文学作品としてはつまらないものにしてしまっている。結局カエサルはファルサロスで決定的勝利をおさめ、ローマ世界の王者となる。しかし、ポンペイウスを追ってエジプトへ渡ったカエサルは、ポンペイウスの死後プトレマイオス王家の内紛に巻き込まれて、エジプト軍と激しい戦闘を行なうことになった。これがアレクサンドリア戦役(前48年10月〜前47年3月)である。戦争は当初の予想よりも激化し、カエサル自身が生命の危険にさらされたほどであった。
ポンペイウスの死によって権力の空白が生まれた東方世界では、ミトリダテス6世の息子ポントゥス王ファルナケスが騒動を起こす。彼はカエサルの副官ドミティウスをニコポリスに破って気勢をあげたが、前47年7月カエサルが到着すると、いとも簡単に敗れ去った。このときのカエサルの友人宛の書簡、「来た。見た。勝った。」("Veni.
Vidi. Vici.") の言葉は余りにも有名である。
東方世界を平定したカエサルの前に新たな敵として登場したのは、ポンペイウス軍の残党小カトーやラビエーヌス、メテルス=スキピオ、ポンペイウスの息子グナエウス=ポンペイウスらの元老院閥族派であり、彼らはアフリカを根拠として閥族派勢力の再興をはかる。これに対抗してアフリカ戦役(前47年12月〜前46年6月)が行なわれ、カエサルが勝利を納めるとウティカに拠ったカトーのように死を選んだ者もいたが、ラビエーヌスや大ポンペイウスの次男セクストゥス=ポンペイウスらはヒスパニアへ逃れ、長男のグナエウス=ポンペイウスと合流して再び反カエサル闘争を開始する。(ヒスパニア戦役、前46年12月〜前45年7月)しかし、この戦争は大苦戦となり、特にムンダの戦いは当のカエサル自身が、
「今までは幾度も勝利のために戦ってきたのであるが、生命のために戦ったのはこれがはじめてだ。」(プルタルコス『カエサル』56)
と言わざるをえないような苦しいものであった。一説には、この後カエサルはクラッススを倒したパルティア遠征を計画していたといわれるが、突然の死のためその計画は実行されなかった。
カエサルが行なった戦争の概略は以上のようなものであったが、ここからはこれらの戦争の状況を様々な観点から考察することによって、軍人としてのカエサルの姿を浮き彫りにしてみたい。
カエサルは決して強いだけの軍人ではなかった。カエサル軍の強さは彼の天才的な策略に負うところが大きい。そこで、まず最初に彼が戦闘で使用した策略について考えてみることにしよう。
カエサルは優れた軍人で有能な政治家ではあったが、決して素晴らしき道徳家ではなかった。戦闘に勝利を納めるためであれば、卑劣な手段を使用することもいといはしなかった。特に相手が蛮族であるガリア戦争の場合、カエサルのやり方は卑劣をきわめる。約束は守らない、(注5)嫌がらせはする、(『ガリア戦記』6−10)しかし、クリエーンス部族に対してだけは手厚い保護を加える。(『ガリア戦記』8−23)このアメとムチの作戦がカエサルの基本であった。
しかし、そういった卑劣なやり方とは別に、一見奇抜には見えるが、カエサル一流の戦況の冷静な分析から出てきた、卓越した戦法も見ることができる。たとえば、ウェルキンゲトリクス戦争遂行中、有名なゲルゴウィアの戦のときのことである。(『ガリア戦記』7−45)敵がある軍事上の要衝を固めたのを知ると、カエサルは敵の注意をその場所からそらすために、真夜中に配下の騎兵を散らばらせておき、夜明になると役馬やラバを陣地から引っ張り出し、馬丁に鉄兜をつけさせ騎兵の姿に仕立てて敵を包囲させた。この奇策は残念ながら兵士の勇み足により最終的には失敗したが、敵を驚かす効果は十分あった。「トロイアの木馬」を思わせる作戦であった。(注6)
ポンペイウス軍と戦ったファルサロスの戦では、敵側の兵士が多くは貴族の出で、戦争には慣れておらず、まだ若くヘアスタイルを奇麗に整えて戦場に出てきている様子を見ると、部下にいつものように投げ槍を投げつけず、それを持ったまま敵兵の下半身ではなく目をねらって、顔に傷を負わせるように指示した。(プルタルコス『カエサル』45)敵兵が生命の危険よりも将来において『きずもの』になるのを恐れるだろうと見越しての作戦であった。この作戦は見事に図に当たり、カエサルは大勝利を納めた。
作戦上の奇策もさることながら、カエサルが使用した戦闘用具にも注目してみたい。
ガリア戦争天下分け目の合戦、アレシア包囲戦の時のことである。迫り来るガリア人救援部隊による逆包囲を恐れたカエサルは、様々な防御用具を用意した。その様子を『ガリア戦記』(7−73)から引用してみよう。
「そこでカエサルは、封鎖施設をできるだけ少数の兵力で防衛できるように、これまでの施設をさらに強化する必要を感じた。そこで木の幹や非常に頑丈な太枝を切り取り、先端の部分の皮を剥ぎ尖らす。ついで深さ1.5メートルの長い溝を各地点に掘る。溝の中に、この切株などを埋めるが、そのとき、切株が引き抜かれないように、あらかじめ溝の底でお互いに固く結ばれている。枝は土の表面に飛び出したままにほうっておかれる。このような切株は、1つの溝の中に5列並び、根元で列同士が相互に結ばれからみ合わされる。この列の中にはいった者は、誰でもこの鋭く尖った防柵で、われとわが身を串刺しにした。兵士らはこれを境界杭と呼んだ。
この前方に5つ目型を作るように、筋違いに、深さ1メートルの穴を掘った。穴の側面は、底へ沈むにつれ、しだいにすぼんでいた。この中に人間の腿ほども太い、皮を剥いだ丸太を打ちこみ、その先端を焼いて尖らせ、土地の表面よりわずか、4本の指幅もないくらい突き出させ、同時にこの丸太がぐらつかぬように、固定させるため、穴の底から20センチほどの深さまで土を詰め足で踏み固める。穴の残りの部分にはこれが落とし穴であることを隠すため、小枝や柴を埋めておく。このような落とし穴を8列つくり、それぞれの列の間隔を1メートルとした。これは形が百合の花に似ていたところから、兵士らは百合とよんだ。さらにこの列の前面に、長さ30センチの小杭をそっくり地中に埋め、先端に打ちこんだ鉄の鉤だけ地表に残しておく、この杭がわずかの間隔をおき至る所にばらまかれる。これを兵士は、牛の突棒(岩波文庫版では「刺」)と名づけた。」
これは彼の考案した「わな」についての箇所であるが、このように記述は詳細を極め、誇らしげでもある。もとより『ガリア戦記』はカエサルのローマに向けた政治宣伝文書であり、この記述を見ると、これらの戦法はカエサルのオリジナルのものであったか、たとえギリシアあたりに祖を仰ぐとしても、当時それほどポピュラーな戦法ではなかったろうと思われる。やみくもに進むだけではなく、防御戦においても天才を発揮した例である。また、蛇足ではあるが仮にも人間を殺傷するわなに「百合」などというしゃれた名前をつけるところなど、カエサルと彼の兵士のユーモア感覚が感じられて興味深い。
『ガリア戦記』では直接敵兵を殺傷する武器・作戦ばかりではなく、頭脳的作戦も紹介されている。アルファベットの位置をずらせた暗号通信法(スウェトニウス『神に祀られたユーリウス』56)や、蛮族に読まれないようギリシア文字を使った軍事通信法(『ガリア戦記』5−49)などが代表的な例である。
文書の性格上、『ガリア戦記』での諸作戦がほとんど成功裏に終ったと描かれているのは仕方がないが、ともあれ、カエサルは戦略家としても天才的で、どんな苦境に陥っても決して落胆することなく、常に頭脳的作戦によって窮地を切り抜け、攻めるにあたってもやみくもに敵を殺戮するのではなく、(もちろん経済的な利害計算があろうが)皆殺しよりも作戦による敵の降伏を願った。そして、何よりもそこにはほのかなユーモアが漂い、記録を読むものにはったりを感じさせない人間的魅力が感じられる。そして、それだからこそ、軍事上の問題だけではなく、カエサルが政治的にも一流の「戦略家」であったと言うことができるのだろう。
前節では軍人としての彼の「能力」を、おもに「頭脳」の面からみてきた。ここではその「能力」を軍指揮官としての資質に注目して検討してみよう。
指揮官の任務は、もちろん戦闘において敵を打ち負かすことにある。しかし、戦闘は一人で行なうわけにはいかないから、部下の兵士たちをいかに巧妙に掌握するかが、指揮官にとっての最大の問題になってくる。まず最初に、カエサルとその部下の兵士たちとの関係について探ってみたい。少々長いがスウェトニウスによる総括的な記述を引用してみよう。
「兵士の不行跡には一切眼をつむり、罰則を設けたりしなかったが、脱走兵は鋭く監視して、他の欠点は黙認しても厳重に処罰した。また時には大勝利の後で兵士を一切の軍務から解放し、乱痴気騒ぎを全面的に許し、自分の兵士は香水の香りをプンプンさせていてもよく戦えるのだといつも自慢にしていた。集会では彼らに『兵士諸君』と呼びかける代わりにお世辞たっぷりに『戦友諸君』と呼びかけた。また見かけをよくするだけではなく、大切なものをなくしては一大事と戦場でそれを死守する気持を一層強く持たせるため、金銀をちりばめた武器を持たせて、軍隊を美しく飾り立てた。部下を愛することは大変なもので、ティトゥーリウス(カエサルの副官)の惨敗を聞くと、頭髪と髭を長く伸びるままにして、その復讐をするまでは刈ろうとしなかった。(注7)
このようにして彼は部下を極めて勇敢にするとともに彼に対して絶大な忠誠心を持たせた。内乱が始 まったとき、各軍団の百人隊長は一人残らず自分の貯金で銘々自分の騎兵一人分の装備を負担し、兵士も全員一致して無給で穀物の配給も受けずに軍務に服することを申し出て、金のあるものが金の無いものの面倒をみた。長い闘争の間を通じて脱走した兵士は一人も無く、多くの兵は捕虜になると、カエサルの敵側について戦うなら命を助けてやるといわれても助命を断わった。(注8)包囲攻撃を受けているときも敵を包囲攻撃しているときも飢餓その他の困苦欠乏に耐えるその毅然たる態度は大したもので、(注9)ポンペーイウスがデュルラキウムの城塞で彼らが食糧にしていた雑草で作った一種のパンのようなものを見たとき、自分は野獣を相手に戦っているのだといい、敵の忍耐力と果敢さが味方の兵士を意気沮喪させることを恐れて、直ちにそれを見えないところへ隠し、部下の兵士の誰にも見せないように命じたほどである。
彼の部下がいかに勇敢に戦ったかはデュルラキウムで後にも先にもただ一度の敗北を喫したとき、自分たちの処罰を要求した一事で証明されている。これに対してカエサルは彼らを責めるよりむしろ慰めなければならぬと感じた。他の戦闘では彼らは敵の大軍を遥かに少ない兵力で苦も無く打ち負かしたのであ る。現に第6軍団の1大隊のごときは保塁の守備を命ぜられたとき、敵の夥しい矢−あとで防壁のなかで拾い集められた矢は13万本を数えたという−を浴びて傷ついたにもかかわらず、ポンペーイウスの4軍団を数時間にわたって一歩も寄せつけなかった。他の例を挙げなくとも、百人隊長カッシウス=スカェワとかあるいは一兵卒のガーユス=アキーリゥスなど、個々の兵士の武功を考えるならば驚くにあたらないことである。スカェワは片眼を失い、腿にも肩にも傷を受け、盾には120ヶ所に穴をあけられながら自分に任せられた保塁の城門を守り続けた。アーキリゥスはマッシリアの海戦で敵艦を掴み、右手を切り落とされると、ギリシアの英雄キネギーリウスの有名な武勇の向こうを張って敵艦に乗り込み、持っていた盾の飾りで敵を追い散らした。
ガリア戦争の10年間彼らは一度も反乱を起こしたことはなかった。内乱では時々反乱を起こしたが、直ぐに軍務に復帰した。それも彼らの司令官の宥和政策よりも彼の毅然たる権威の行使によるものであった。なぜなら軍隊が反抗を企てたときは決して彼等に譲歩せず、大胆に彼らに立ち向かい、たとえば、プラケンティアではポンペーイウスがまだ屈服していないにもかかわらず第9軍団全部を不名誉な解隊処分にし、彼等が卑屈な嘆願を何回も繰り返し、カエサルが首謀者の処罰をすませてからやっと不本意ながら原隊に復帰させた。
またローマで第10軍団の兵士が彼らの釈放と報酬を要求してローマ市民に大きな脅威を与え、彼らを少なからざる危険に曝したが、アフリカでの戦闘がなお激烈を極めていたにもかかわらず彼は友の忠告を無視して、臆することなく彼らの前に姿を現わし彼らを除隊した。しかし、彼らを兵士諸君と呼ぶかわりに市民諸君と呼んで、ただその一言で造作なく彼等の考えを一変させ自分の意志に従わせた。というのは彼らは直ちに自分たちは彼の兵士であると答え、カエサルが拒否したが、彼に従ってアフリカに赴くといって聞かなかった。そのときも彼は最も反抗的な者には彼らを処罰する意味で彼らに与えるつもりであった戦利品と土地の3分の1を差し引いた。」(スウェトニウス『神に祀られたユーリウス』56)
このスウェトニウスの記述はだいたい他の記録とも一致する。実際カエサルの部下の兵士の取り扱いは非常に寛大であり、常に兵士と寝食をともにし、苦労を分かち合い、兵士から絶大な信頼を得た。(注10)ポンペイウスとの内乱中は兵士が常に平穏であったわけではない。(注11)しかし、だいたいにおいて兵士は勇敢でよくカエサルを助けた。(注12)
カエサルがこのように部下の信頼を得た理由として、プルタルコスは次のように語っている。
「こういう勇猛心と名誉心は、カエサルその人が養いかつ育てたのである。それにはまず第一に、惜しまずに褒賞と栄誉を与えることによって、次のようなことを示したからである。すなわち、戦争で富を集めても、それは自分一個のぜいたくとか快適な生活といったもののためではなく、武勇に対する公の褒賞のために、自分の手許に注意深く貯えられてあるのだということ、そして、彼が自分でその富を使うのも、軍功のあった兵士に与える分としてでしかない、ということを示したのである。」(プルタルコス『カエサル』17)
カエサルが部下と苦労をともにしたのは有名な話であり、そのような将軍の姿が兵士に尊敬の念を持って迎えられたことは想像に難くない。(注13)
また、何よりも兵士の尊敬をかきたてたものに彼の「豪胆さ」があった。プルタルコスは飽くことなく何度も「豪胆」の語を繰り返しているが、「カエサル=豪胆」というのはプルタルコスのカエサル観の根底にあるようである。ここでは軍事面の豪胆さに限り触れることにするが、最も有名な逸話は、デュルラキウムで味方の兵士が敗走を始めると、カエサルは踏みとどまって、生命の危険をおかしてまで兵士の向きを変えようと彼らに立ち向かった。(『内乱記』3−69、スウェトニウス『神に祀られたユーリウス』62、プルタルコス『カエサル』39)また、アレクサンドリア戦役においては、自分の乗る小船が敵に囲まれてしまうという危機に見舞われたことがあった。彼はエジプト軍の包囲の中を命からがら泳いで逃げたが、そのときにも冷静に手に持っていた多くの書類を水で濡らさないように、海面から高く差し上げて片手で泳いだのだという。(注14)このほかにもカエサルの人生は豪胆さを示すエピソードに満ちている。(注15)
豪胆さの他にも、兵士たちをカエサルに引き付けたものがあった。それは部下を巧みに操る雄弁の術であった。どんなに不満があろうと、どんな窮地に追い込まれようと、カエサルが目の前に現われいったん口を開くと、兵士たちはカエサルの思うがままに動いた。
ガリア戦争中のことである。アリオウィストスの率いるゲルマン人部隊が接近すると、その異様な体格と勇猛さの噂がカエサル軍内にパニックを引き起こした。これに怒ったカエサルは、会議の場で百人隊長たちを激しく叱責し、巧妙な演説を行なって第10軍団への信頼を公にした。自分の頼りになるのはこの軍団だけだと宣言したのだ。(『ガリア戦記』1−40)しかし、皆がこの演説を聞くと、「誰も彼も心を入れかえ、闘魂を奮い起こし、大いに気負い立」って(『ガリア戦記』1−41)第10軍団は最大の感謝をカエサルに捧げ、他の軍団の兵士たちは恥じ入って釈明し、皆が士気にあふれアリオウィストスに立ち向かうこととなった。素晴らしい雄弁の効果である。また、デュルラキウムの敗戦(内乱時)の後には兵士を説諭し、処分しているが、(『内乱記』3−73)「全員の兵士が敗北の口惜しさと汚名をすすぎたい熱意に激しく襲われ」(『内乱記』3−74・90)皆が自分自身に重労働を課し、闘魂の炎に激しく燃えたという。(注16)
カエサルは部下に対してまさに「アメとムチ」をもって臨んだ。部下の失敗に対し、それが叱った方が効果ありと見たときには激しく叱責し、なだめる方が得策と見ると、大きな褒賞を与えている。(『ガリア戦記』5−53・7−17・18、『内乱記』3−6・80など)彼は大変に部下思いの指揮官であった。スウェトニウスは次のように語る。
「彼(カエサル)は部下の兵士を評価するのに決してその素行や地位によらず、専らその武勇を問題にした。そして、同じ厳しさ同じ優しさをもってすべての兵士を扱った。敵を前にした場合は別としていかなる場所、いかなる場合での彼らを抑えつけることはなかった。」(スウェトニウス『神に祀られたユーリウス』65)
ただし、同時に「敵を前にした場合は極めて厳しい軍規を要求し」た(同)とも言う。
確かにカエサルは厳しい一面も持ってはいたが、その厳しさの中にも、部下を思い遣る優しい心使いが見えた。(注17)中でも物質的な気前よさにおいてはカエサルはローマでも右に出る者がなかった。彼の気前よさに関しては、おもに彼の性格分析を行なう第3章で詳しく触れるので、ここでは戦時のものに限って考えてみるが、彼は部下の忠誠心を得るためには金を惜し気もなく使っている。たとえば、ポンペイウスに勝利し内乱が終了すると、戦争に参加した軍団の歩兵一人一人に対して、内乱勃発時に支給した2000セステルティウスのほかに2400セステルティウスを戦利品として支給し、旧地主の不利にならぬように配慮しながら農地支給も行なった。このような軍人たちが、その後カエサルの強力なクリエンテーラをを形勢したのは後に見るとおりである。(注18)
しかし、もちろん彼は甘いだけの将軍ではなかった。兵士の非を強く責めることもあったし、(『ガリア戦記』1−40)緊急のときは強行軍もいとわず、(『ガリア戦記』7−40)厳しく指令を送ることもあった。(『内乱記』3−25)
このように考えてくると、カエサルの軍指揮官としての成功の原因はひとえにその部下に対する人心掌握術にあったことが分かる。トルストイは『戦争と平和』の中で繰り返し、近代兵器出現以前の戦争の勝敗は兵士の士気によって決まると語っているが、カエサルはその点完璧に兵士の心をつかみ、士気を鼓舞する優秀な司令官であった。
ところで、カエサルは戦争において味方に対してだけではなく、敵に対しても信じられぬほどの寛容さを持って臨んでいる。このことは必然的にカエサルのクリエンテーラを拡大させる結果となり、独裁権の基盤を形成することとなる。(注19)しかし、ここには政治的駆け引きが多く見られるため、敵に対する寛容さ・クリエンテーラ形成については、「政治家としてのカエサル」を考察する機会に詳しく触れたい。
さて、カエサルの軍人としての資質の検討にあたって、最後にカエサルが戦争に対してどのような考えを持っていたか、あるいはどのような信念のもとに戦争を行なっていたかを、政治的分析の章と重複しない程度に触れておきたい。
概略のところでも少しばかり触れたが、カエサルは戦争遂行に際して、種々の口実を表明している。たとえば、『ガリア戦記』を通じて語られる戦争の理由は、全て「味方の部族に頼まれて」「属州の安全のため」「ローマの国威」「将来の危険防止のため」などの自分勝手な都合のよいものばかりである。ガリア政策については次章で詳しく検討する。
ガリア戦争が「ローマ人として当然」の戦争であったのに対して『内乱記』で語られる戦争は、彼にとってまったく別の意味を持っていた。相手がローマ市民であるために世論を考慮したのであろうが、これらの戦争は常に「やむにやまれぬ」戦争であったと語られている。この言葉の真偽は別としても、「内乱」がカエサルにとってガリア戦争とはまったく違った意味を持っていたことだけは十分にうかがわれる。(注20)
とにかく、以上見てきたように、カエサルは常に戦争の状況を冷静に的確に判断していた。(注21)そして、常に反省を忘れずに(プルタルコス『カエサル』39・46・56、スウェトニウス『神に祀られたユーリウス』30・36)偉大な決断力をもって毅然として戦闘に向かった。(注22)真に偉大な将軍・軍人とはまさにこのようなものであろう。(注23)
第1章 注
また、プルタルコスはヘルウェティー戦争中、カエサルに馬を献上した者があったが、カエサルは、「これは勝利を収めてから敵を追撃するときに使うことにしたい。今は徒歩で敵めがけて突撃しよう。」と言って歩いて攻撃に向かった逸話を伝えている。(プルタルコス『カエサル』18)
雄弁についてはその他にスウェトニウス『神に祀られたユーリウス』66参照。
イレルダでポンペイウス接近の噂を聞くと、副官や百人隊長から金を借りてそれを兵士に分配している。(『内乱記』1−39)それはひとつは借金で百人隊長らの気持をつなぎ止め、ひとつは
気前よい賜金で兵士の好意を得るためであったのだが、この、金を借りてまで金をばらまくというのはカエサル一流のやり方であった。(『内乱記』3−53に関連事項)それに対しての部下の忠誠心はスウェトニウス『神に祀られたユーリウス』38。
カエサルの兵士に対する恩賜とそれに対する後々までの兵士の感謝については、前出書"Social Conflicts in the Roman Republic"の p.142-143に「兵士の好意はカエサルの死後も続いている。」の記述あり。
また、彼の寛容さが兵士を引きつけた例はプルタルコス『カエサル』51
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