川の流れに身を任せて

お釈迦さまのお言葉に、
「水をくみ出したならば舟は軽やかに進むであろう」
というものがある。

たとえば、遊園地の池に浮かんでいるような手こぎの小舟があるとする。この舟の中に水が一杯たまっていると、重くて漕いでもなかなか進んで
くれないが水をきれいにくみ出してしまう
と軽やかに進むことができる。それと同じように、私たちの心の中が水びたしになっていると冷たく
重苦しくて仕方がないが、水をくみ出してしまえば
軽やかにのびのびと生きていく事ができる。

心の中に何もないのが心のいちばん理想的な状態だからであり、
何もない心のことを「無心」という。
この心の中にたまった水のことを仏教では煩悩(ぼんのう)と呼んでいる。
人間には百八ツの煩悩が
あると言われ、除夜の鐘を百八ツつくのは
この煩悩を退治するためだという。

しかし鐘をついたぐらいでは、なかなか煩悩は退治できるものではない。

三毒(さんどく)

数ある煩悩の中で「貪りの心」「怒りの心」「愚痴の心」の三つを、 人間をいちばん苦しめる毒薬という意味で「三毒」とよんでいる。
仏教では「怒り」を「瞋り」の字で
書きあらわし、
貪瞋痴(とんじんち)三毒」とひとまとめに言うことが多い。

★一番目の「貪(むさぼ)りの心」とは、自分の好きなものに執着し、
欲のために心が病気になることである。
白隠禅師の歌に、
「知者も善者も浮き世を見るに色と金には皆迷う」とあるように、色と金に迷う人が
いちばん多いようであるが、
「欲を心から離れてみやれ 何がなくとも充分じゃ」
となりたいものである。

二番目の「怒りの心」は、自分の嫌いなものに対して反発したり
腹を立てたりする心をいう。怒りの心が、どのぐらい自分自身を
苦しめるかは、喧嘩をした時の不愉快さを思い出してみれば
よく分かる。さらに怒りがこり固まって恨みとなると、
かなりの重症である。怒りは人を損なうことが大きいけれども、
反省して改めれば比較的退治しやすい煩悩と言われ、
怒りの病に対しては「忍」が治療法である。忍とはひたすら耐え忍ぶといった消極的なことではなく、自分の気に入らないことがあっても
腹を立てずに冷静に対処できる積極的な心のことである。

 貪りの心は自分の好きなことに執着する心、怒りの心は嫌いなものに
 反発する心だから、
好き嫌いの激しい人はそれだけ
 苦しみの多い人生を送ることになるのかも知れない。

 白隠禅師の歌に曰く。
 「人に対して腹立つときは 早くおのれが愚痴と知れ」
 
「人の善し悪し眼に立つうちは 恥じて修行に精出しゃれ」

三番目の「愚痴の心」は、「道理をわきまえない愚かな心」
と説明されている。全てのことを自分の思い通りにしたい、
自分だけは年を取らず病気にならずいつまでも生きていたい、
好きな人とだけお付き合いして嫌いな人は顔も見たくない、という
わがままな心のことである。この愚痴の心は「無明」とも呼ばれ、
迷いの心の根源とされる。愚痴の心から貪りの心がおこり、

貪りの心あるところには必ず怒りの心がある、というように三毒が
出そろい、
さらに様々な煩悩に枝分かれしていくのである。
愚痴の心に対しては、当然のことであるが
「道理をわきまえた明らかな知恵」が 処方箋となる。
自分の好き嫌いに合わせて世界が回転している訳ではないから、
道理をわきまえて道理に自分を合わせるのである。

 白隠禅師の歌にいわく。
 「よきも悪しきもよそより来ぬぞ 迷う我が身の心より」
 
「死ぬもめでたい生きるもめでた とかくこの世は仮の宿」

 ●霊妙なる仏心 このような三毒に代表される心の水を、
 きれいにくみ出してしまった人が「本当の生きた仏様」なのであり
 水一滴のこっていないきれいな心のことを「仏心」という。
 そして、
すべての人が生まれながらに「霊妙なる仏心」を持っている
 というのが大乗仏教のいちばん
重要な教えなのである。
 心の水をくみ出して大切な仏心を守り、

 軽やかに安らかに生きていきたいものである。

「なにも思わぬは仏の稽古(けいこ)なり」

                                  至道無難禅師
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