年の瀬の押し迫った東邦学園高等部の学生寮には、既に殆どの人影はない。
冬休みに入った時点で大半の寮生は帰省しているし、部活の関係で入寮している生徒の大半も、近隣が実家である生徒は、基本的に実家から練習に来ていたりで、一樹達のように寮に残っている生徒は、従来の10分の1にも満たない。
別段、実家が近いからといって冬休み期間中に寮に居残ってはならない、という規則はない。帰りたければ帰れば良いし、残りたければ残ればいい。事実、一樹の実家は都内だが、彼には実家に帰省する気など毛頭無かった。
人影の少ない寮内の、更に人影のない談話室で。一樹は何をするでもなく、窓の外を眺めていた。遅くまでの厳しい練習を終え、食事も風呂もすっかり済ませ、漸くの短い自由時間の筈なのに、何もする気が起きない。ならば諦めて眠ってしまえばいいのだが、それも出来ない。仕方なく談話室に足を運んでみたのだが、勿論大半の人間がいない今、時間潰しの相手をしてくれるような相手も捕まらない。
なんとも治まりの悪い居心地で、しかしこのまま此処で無為に時間を潰していても埒が明かないと漸く判断し、飲み終えた空き缶をゴミ箱に投げ入れようとしたのだが。
カランカランカラン、と。静まり返った室内に、やけに響く音を零しながら、缶はゴミ箱の外へと弾かれる。
「あ〜あ最悪」
そう小さく毒づきながら、一樹は身を沈めていたソファから渋々体を起こし、缶を拾い上げる。それから至近距離にあったゴミ箱の中に、派手な物音を立てさせながら投げ入れた。
と。
「どうした?ご機嫌斜めだな」
不意に後方からかけられた声に、一樹は振り向く。
「吃驚したあ。何ですか?日向さん」
目を丸くしてそう聞き返され、日向は苦笑する。
「そうやって聞こえないふりして誤魔化すな」
「やだなあ人聞きの悪い」
そう言いながら笑う一樹の頭を、コツンと日向の拳が押す。
「他の人間はともかく、ソレが俺にも通用すると思ってるなら、見損なうのも甚だしいぞ」
「…………少しは誤魔化されてくれる気、ありません?」
「無いな」
きっぱりと言い返されて、一樹は小さく肩を竦める。
「で?」
「別に機嫌悪くなんかないですよ」
「今は、な」
「常に、です」
「だから誤魔化すな」
重ねての日向の言葉に、一樹は『参ったなーもう』と小さく口にして苦笑する。
「別に、ね。本当に不機嫌とかじゃないんですよ。ただ無気力なだけです」
「……………そんなに奴の不在が不満か?」
「何の事でしょう?」
「だから誤魔化すな」
「……………別に、不満なんてないです。だって日中は嫌でも顔合わすわけだから」
「まあ確かにそうだがな。………反町はどうして帰省しないんだ?奴なんかよりもずっと実家近かった筈だろう?」
「別に深い意味はないですよ。ただ単に戻るのが面倒臭いのと、毎日練習に通うのが面倒臭いだけです。近いって言ったって、それでも来るのに時間かかるんですもん、そんな時間あったら寝てますよ、オレ」
そう答え、一樹はそれ以上の会話を終わらせようと、買うつもりのなかった自動販売機へと向かい合い、ピッとボタンを押すと目的の物を取り出して、日向に手渡した。
「はい、どうぞ」
「……物でつられるほど甘くはないんだがな」
手渡された炭酸飲料にそう苦笑して、日向は一樹同様に自販機に向き合うとボタンを押す。
「ホラ、物々交換」
そう言って手渡された缶コーヒーに一樹は小さく眉を顰めた。滅多に見せないその表情に日向は笑うと、ソファへと促してくる。渋々と再びソファに身を沈め、一樹は手にした缶を開けると口をつけた。微かに広がる普段なら大歓迎の苦味に、益々眉を顰める。コーヒーの香りで瞬時に脳裏に浮かんだ顔が原因だなんて事は勿論バレはしないだろうけれど、それでもその表情だけで十分に今の一樹の機嫌が下降線だと言うことは、きっと目ざとい現キャプテンにはバレてしまうのだろう、と一樹は幾分投げやりに考えていた。
どのみち、目の前の彼には大半の隠し事が通用しやしないのだ。
「………そんなに例の企画を蹴られたのが不満か?」
ズバッと核心をついてくる疑問符に、一樹はもう笑うしかない。
いつだって変化球で物事をかわす自分。けれどその切り札である話術が通用しない、数少ない相手である日向には、どれだけ言葉を駆使したり濁したりしても、結局何一つ効きはしないのだ。
「不満って言うより、騒ぐネタ奪われてつまらないだけです」
「………相変わらず、素直じゃない奴だな」
「そんな事言うの日向さんくらいですよー。こ〜んなに素直なのにオレ〜」
白々しく言い切ってみたところで、勿論彼が信じるはずもない事は重々承知していたけれど。でも、素直に頷くなんて事が出来るはずもない。その点で言えば、確かに先の彼の言葉は的を突いているのだ。
「………素直じゃない者同士ってのも厄介だな」
「日向さんにだけは言われたくない言葉ですよ、それって」
そう言うと、瞬間日向の眉根が寄る。その様にクスクスと笑いながら、一樹は北の大地にいる友人の顔を思い起こす。彼らだって大概素直じゃない者同士なのだ。自分と違う所は、それが意図しての物か否かという部分だろうけれど。
「俺の事はこの際どうでもいいんだよ」
場を取り繕うように短い咳払いを一つして、日向がそう云うのに、益々一樹は笑いを零す。目の前の彼の唯一のウィークポイントを突付いて遊ぶのが、目下のところ一樹のお気に入りの遊戯なのだ。
「いい加減笑いすぎだ」
コツンと殴られ、ようやくの思いで一樹は笑いを抑える。
「……………たまには、素直に甘えるのも手だと思うがな」
予想外のその一言に、一樹は目を丸くした。
周囲の一樹に対する評価を鑑みれば、そんな言葉が出てくる筈もないのだ。
甘え上手の末っ子気質、それが周囲が彼に対して一様に抱いている評価だからだ。
「どうでもいい奴やどうでもいい事で甘えるのは上手いのにな」
そう言って日向は笑うと、ポンポンと一樹の頭を数度軽く叩くと、立ち上がる。
「……………長兄の洞察力を甘く見るなよ」
言われて苦笑する。末っ子の自分には到底持ち得ない観察眼なのだろうと認めざるを得ない。
「正直な感想を言えば、待ってると思うんだがな、俺は」
「は?」
「甘えてくるのを」
「……………はい?」
言葉の意味を本当に掴みきれていないのだろう表情でそう聞き返してくる一樹に、日向は再び苦笑する。
「素で返す辺りがなあ………」
「何ですか〜もう」
「普段は余計なぐらいに聡いのに、自分の事になると時々そうなるよな、お前は」
「日向さん?」
「……………お前が甘えてくれるのを待ってるんだと思うんだがな、って言ってるんだよ」
「……………………………誰が?」
唖然と返された言葉に、とうとう日向は笑い出す。
「日向さんこそ笑いすぎです」
ようやく思考が追いついて、彼の言わんとする事を理解して。一樹は想像の範疇外の指摘に、内心では困惑しきったまま、それでも表面上は表情一つ変えずにそう言い放ち。
「そろそろ部屋に戻ります。お休みなさい」
「ああ、お休み」
これ以上の会話を続けさせまいと立ち上がった一樹に、日向は尚も笑いながら、敢えて引き止める事はせずにそう返して来る。その答えに小さく頷いて、少しでも早く自室に戻りたい気持ちを抑え、それでも内心の困惑を悟られたくなくて(それが無意味な工作だとは解っていたが)一樹は談話室を殊更ゆっくりと後にした。
廊下の突き当りを曲がり談話室から見えない場所まで移ってから、漸く一樹は歩調を速める。
甘え方なんて、知らない。一樹は胸中で呟く。
どうでもいい奴やどうでもいい事で甘えるのは上手いのに、と日向が表現していた事を思い起こす。つまりそれは、本当は全然甘えていないんだろう、そういう指摘だ。
多分、それは正しい指摘だ。大半の事柄に対して、一樹は幾らでも自分を取り繕える。昔から、そういった事が得意だった。意識していたわけではない、自然と身についた術だ。
一樹の実家は、いわゆる代議士一家だ。父も祖父も曽祖父も、議員。年の離れた一番上の兄も既に県会議員だし、2番目の兄も議員を目指し今は誰だかの秘書をしている。すぐ上の姉も、父の秘書。そう言った意味では、反町の一族の中で、一樹独りが異色だった。
別に、父や兄達に反発しているわけではない。彼らの事は素直に尊敬しているし、誇りに思っていると言ってもいい。一人歳の離れた自分を(何せ一番上の兄とは12も離れているのだ。一番近い姉ですら8つも上だ)みんな可愛がってくれているし、一人違う道へ進んだ自分を失望もせず、いっそこっちが戸惑うぐらいに今でも応援してくれている。だから、幼い頃はそれなりに、いや多分かなりの勢いで親兄弟に甘えていたような記憶が朧げにだが残っていた。別段、自分が特別な家の人間だとか思っていたわけでもなく、純粋に家族の一人として、甘える術を知っていた。
けれども、社会の枠組みの中に入って、周囲の輪の中に入って、自分の立場を知ってから一変した。
サッカーに興味を持って、憧れて、最初は地元のクラブに入った。けれども地元では反町の名は有名で、指導者やら保護者やらは一樹を他の子供達と同様に扱ってはくれなかった。自然とその空気は周囲の子供達にも伝染し、結局一樹はクラブの中で、独り浮いた存在になってしまったのだ。小学校1年生の時だった。
それでもサッカーがしたくって、一樹は随分と努力をして6年間をそのクラブで過ごした。その間に、一樹は自分を『装う』術を身につけたのだ。自分を偽り、特別扱いを逆手に場を盛り上げ、和ませ、取り仕切り。そうする事で、浮きがちな自分を周囲に馴染ませようとした。本当の部分を隠すことで、そうする事で、居場所を作っていた。
それでも中学に進学する時、反町の家とは関係なく、自分の力だけで歩きたくて、東邦に進んだ。親元を離れ寮生活をして、完全に個人の能力主義の場に身を置く事で、本当の自分の力をみたかった。
そうして、今がある。
昔のように『反町』の名で自分を見て扱う人間は、もういない。東邦での繋がりはあくまで『反町一樹』としての人間関係だけだ。
けれど。
幼い頃に身に付いた部分だけは、変えようがない。
我侭も甘えも、全て『反町』の名前の元では許されてしまって、その事が逆に一樹からその行為を奪ったのだ。そして自然に、自分の本音を上手く誤魔化す術を身に着けてしまったが故に。
一樹は、素の自分を曝け出す事が苦手になった。いや、怖いとすら思っているのだ。
だから場を盛り上げるための我侭や、その場を和ませる為の甘えは平気で出来るのに、本音の部分でソレが出来ない。
親しい間柄であればあるほど。大事な相手であればあるほど、殊更に。
だからこそ。
我侭を言えない。甘えたりなんて尚更、出来ない。
「その結果が今の状況だっていうんだから、我が事ながら呆れちゃうよ、本当に」
自室に戻り、後ろ手に扉を閉めて、そう呟く。
一人拗ねて、結局このまま年末を迎え、新年まで迎えるんだろうか。絶対にそうとは告げられない、けれども本当は一緒に居たかった、今の一樹にとって一年で一番特別なその日を共に過ごせないならば……。
「年末も年始も意味がないけど、さ」
小さく呟いて、それからベッドに飛び込んだ。
「あ〜あ、もう。全然オレらしくないよなー、こんなの」
こんな風に、いつまでもしつこく引き摺って、その上拗ねたままで。だなんて。
きっと、本当の自分がこんな人間だなんて知ったら、彼は呆れるだろう。そして……見限られるかもしれない。
………そう、本当はそれが一番怖いのだ。
「…………明日、ちゃんと言えるかな」
練習が始まって、彼が実家に帰るまでの間に。本当は、そんな風に告げたくはないけれど。それでも、当日に言わなきゃ意味がない、言葉を。
大丈夫。
一樹は自分に言い聞かせる。
それぐらい、いつもの自分には全く問題なく言える言葉だ、と。
皆に紛れて、冗談めかして言えばいい。
誰よりも大事で、誰よりも失えない、そんな大事な大事な人への、大切な言葉だけれど。
たった一言、それでも特別なその日だけに言える、言葉。
彼がこの世に命を受けた、特別なその日にだけ伝えられる、大切な、特別な言葉を。
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