「はい」
 ノックの後に、光の答える声がして、扉が開かれる。
「おはよう」
 室内を覗き込み、健はそう声を掛ける。
 ピクン、と。ベッドの上に身を起こしていた一樹の細い肩が、跳ね上がる。
「一樹」
 光の呼び声に、ゆっくりとその視線が動く。感情を映さない双眸が、まっすぐに見据えてくる。
「これから、君の御家族に会いに行って来るんだが」
「家族………?」
 瞬間、怪訝そうに眉根を寄せた彼は、数拍をおいて小さく哂う。
「ああ、箕沼に? ………ご苦労様」
 一樹はそう言って、小首を傾げた。
「………それで?」
「すぐにも家に戻りたいだろうけど、少しの間我慢して貰いたい。報告が終わったらすぐにでも迎えに来て貰えるだろうし」
「無理だよ」
 健の言葉を遮るように、一樹がそう返す。
「え?」
「無理だって言ったの。迎えなんて寄越しやしないよ。せっかく厄介払い出来たのに、そんな事するわけない」
「厄介払い?」
「…………箕沼に、オレの事報告してないの?」
「え? あ、ああ。していないというより、その間が無かったっていうのが正確なんだが」
「ああ、道理で。……………残念だったね」
「残念?」
「………行けば解るよ。ねえ、面倒な事になる前に、オレの事放り出すのが良いよ」
「放り出すって………」
「ああ、でも報酬額の値をつりあげるには良い材料かもね」
 一樹はそう言って、また、小さく哂う。
「厄介事に巻き込まれて、災難だね」
「一樹……?」
 光の呼び声に、一樹は小さく返す。
「………疲れちゃった。眠っても、いい?」
「あ、ああ、うん」
 一樹の言葉に光は頷くと、横たわろうとする一樹を手伝う為にベッド脇に駆け寄る。ヒビの入った肋骨が痛むのか、小さく眉を顰めながら一樹はゆっくりとベッドの中に体を沈み込ませると、目を閉じる。
 暗にこれ以上話したくないのだと告げられた形に、瞬間その場に居合わせた全員が顔を見合わせて、それから健と小次郎は大人しく部屋を後にする。
「………どういう意味だ?」
「おおよその見当がつかないわけでも、ないですけど」
「説明しろ」
「正解かどうかは解りませんよ?」
「構わない。アレだけじゃあ訳が解らん」
「そうですね。道すがら説明します」
 健はそう答え、そして二人は岬の元へ顔を出すと、クリニックを後にした。


「一樹、平気? 何か飲み物、要るか?」
 二人が部屋を辞し、その足音が廊下の奥へと去って行った後。控え目にかけられた光の声に、一樹はゆっくりと閉じていたまぶたを持ち上げる。
「水、貰っていい?」
「ああ」
 一樹の言葉にそう頷くと、サイドボードの上の水差しから注いだ水を一先ず脇に置き、光は一樹の上体を起こすのを手伝った。
「ほら」
「ありがと」
 短くそう答え、ゆっくりと口に含む。
「さっきの……」
「うん?」
「光ちゃんの知り合い?」
「ああ、うん、そう。見た目強面だけど、中身はいい奴らだよ。大丈夫」
「そう………」
「一樹?」
「……………眠って、いい?」
「え?あ、ああ。肋骨、痛まないか?酷いようなら鎮痛剤貰ってくるけど」
「大丈夫」
 一樹はそう返し、再びベッドの中へと潜り込む。
 実際耐えられない程の酷い痛みではない。勿論、それは先に投与された薬のお陰なのは解っていたけれど、少なくとも、今の彼にとってその痛みは、多分必要なものだった。ともすれば無用な思考の淵で溺れそうな己を、紛らわせる為には……。


「彼の戸籍は確かに現箕沼家当主の次男なんですけど、実際は箕沼の前当主の息子なんです。所謂隠し子って奴ですね。何人か囲っていた愛人の内の、特に贔屓にしていた女性との間に出来た子供で、彼女は本妻が亡くなってから後妻に入っています。その頃には、一樹の父親である人物は、隠居してますがね」
「なんだってそんなややこしい戸籍になってるんだ。素直に実子に入れればいいだろうに」
「あまりにも年齢が幼すぎたんですよ。孫にしても若いくらいなんですから。まあ要は世間体を気にしたんでしょうね」
「ああ、そうかい。まあ血縁上は実子だってのはいいとして、だからって何で箕沼家の遺産相続人なんて立場になるんだ? 戸籍上は次男だし、本来にしても現当主の弟なんだから、家を継ぐのはどう考えても彼じゃないだろう」
「そうなんですけどね。後妻が随分早くに亡くなったみたいで、その彼女にそっくりの彼を、ご隠居様は事の他可愛がっていたみたいでして。隠居はしてましたが、実際の箕沼の実権はまだ彼が握っていたらしくって、遺言にこうしたためたらしいんですね」
 遺言内容は至極簡単だった。財産分与の最低限の分け前を現当主他の親族に分け与え、それ以外の財産、つまりは家督を一樹に与える、そういった内容だった。
 無論現当主を始め親戚一同が納得いくはずもないのだが、それが正式な遺言である以上、手も足も出ない。一樹が成人するまでの数年間は、現当主が後見人として箕沼の財産を一応は管理し、成人後は直ちに全てを一樹に譲り渡す、そういう事になっているらしいのだ。
「だから現当主が今の地位でいられるのも残り数年ってわけです。彼らにしてみれば、確かに彼は目の上のたんこぶって所ではあるんでしょう」
「そりゃあまあそうだろうが………。しかし厄介払いって事にはならないだろう。いわば誘拐されてた状態で、それが無事に帰って来りゃあそれまでだろう」
「そうですけどね。ただ」
「ただ?」
「盗みに入られた時に彼は連れ去られていたわけですよ」
「そうだろうな」
「でも今回の依頼に彼の救出は入っていない」
「……………何が言いたい」
「箕沼側がはなから彼の存在を無いものとして全てを進めようとしているのが、気に入りませんね」
「………………既に切り捨ててるって事か?」
「恐らく」
 健の答えに、小次郎は眉を顰める。
 幾らなんでもそれは無いだろう、そう言いかけて口を噤む。
 相手は旧華族だか何だか知らないが、つまりは大富豪だ。何をしでかしてもおかしくはない、そう思ったからだ。
「杞憂であって欲しいとは思いますけどね」
 小次郎の沈黙に健は短くそう告げて。
 期せずして二人は目の前に見えてきた豪邸を同時にきつく睨みつけたのだった。


「それから……」
 盗品のリスト全ての照合が終わった所で、そう健は切り出した。
「何だね」
 横暴な態度を終始崩す気配のない箕沼当主のその返答に、健の隣で黙ったまま座っていた小次郎は軽く眉を顰めた。その気配を感じ取り、軽くその足を蹴飛ばして抑える様にと念を押し、健は肝心な用件に話を移す。
「御子息の身柄も無事保護させて頂いています。そちらの主治医の病院に移すのであれば直ぐにでもこちらは手配が出来ますが」
「息子? 何の事だね?」
 怪訝そうにそう返してくる箕沼の返答。しかしその表情が瞬間強張ったのを、勿論二人は見落とさなかったのだが、敢えてそれには触れず健は言葉を続ける。
「御次男を無事保護していると申し上げたのです」
「…………誰か別の者と勘違いしているのではないかね? 一樹は先の盗難事件の際、盗賊どもの手にかかり命を落とし既に鬼籍に入っている。葬式も一昨日に済ませたばかりだ」
 その返答に、小次郎はきつく眉を顰めた。健は尚も無表情のまま、当主を見据える。
「……………人違いだと、そう仰るのですね」
「それ以外に何があると言うんだね」
「………成程」
 健は小さくそう呟き、居合わせた箕沼の一族、そして弁護士とやらを見渡した。
「あくまでも御次男はその時殺害された、そう仰ると。しかし犯人がそうと認めますか?」
「認めるもなにも、既にその犯行をも自供したと連絡を受けています」
 弁護士がそう答える。
「……………こちらから警察への連絡を入れた時点で、既に手回し済みという事ですか」
「どういう意味かね」
「言葉のままです」
 そう答えた健の前に、滑るように差し出されたのは金額欄が空白のままの小切手だった。
「これは?」
「今回の報酬だ。幾らが希望だね? 好きなだけ記入すればいい」
「………………口止め料って訳か?」
 小次郎が低く呟く。
 既に本来の依頼に対する報酬は受け取っているのだ。
 ふざけるな、と怒鳴ろうとした小次郎の脛を、再び健の踵が蹴り上げる。その痛みに思わず言葉を詰まらせた小次郎を他所に、健は立ち上がる。
「そちらの意図は十分理解させて頂きました。……この報酬についてのお話は、後日改めてさせて頂いて宜しいですか? ある程度時間を頂かなければ、こちらも正当な金額は出しかねますので」
「後日とは?」
「そう心配なさらずとも結構です。明日同じ時間に、もう一度お訪ねします」
「………いいだろう。じっくりと検討したまえ」
「そうさせて頂きます。……全てを棒に振りたくなければ、どうぞ辛抱してお待ち下さい」
「………脅迫かね?」
「まさか。老婆心からの御忠告です。なに、あと一日ご辛抱頂くだけです、今までの事を思えば大した時間ではないでしょう?」
 健の言葉に、暫くの沈黙が場を支配する。その沈黙を破ったのは箕沼当主だった。
「明日のこの時間、遅れずに来たまえ」
 そう言い残し彼はその場を出て行った。それに続くようにして、健と小次郎を残し全員が部屋を出て行く。
「さて、俺達も引き上げましょうか」
 その言葉に小次郎は健を睨み上げる。
「言いたい事があるのは承知してますけど、それは此処を出てからにして下さい」
 そう言ってさっさと部屋を出て行く健を、小次郎は尚も睨みつけながら、それでもその後に続くのだった。


「どういうつもりだ、あれは」
「どう、とは?」
「奴らの思惑に乗りやがって」
「………日向さんが憤るのも解りますけどね」
「だったら何故だ」
「あそこに戻るのが、彼の為になりますか?」
 ハンドルを握る健のその言葉に、小次郎は彼を見やる。
「彼にとってあそこは帰る場所じゃあないんでしょう。それは彼との面会の時に解っているはずです」
「…………ああ」
 家族に会いに行くといった健の言葉に、暫し沈黙して哂った彼の表情を思い起こす。家族の言葉に、他人行儀に箕沼と答えた彼。
「だから、ね。彼にとって最善の方法を探そうかと思いまして」
「最善の方法?」
「そうです。幸いと言っては何ですが、『箕沼一樹』は死んだ事にされている。彼が新しい人生を歩むには、絶好のチャンスでしょう」
「………成程。…………若林の野郎に、新しい戸籍を作らせる気か?」
「まずはそれが最重要でしょう。………ともかく、まずは彼の意向を確かめる事が必要ですけどね」
 健の答えに、小さく頷き、それから小次郎は笑う。
「しかし珍しいな」
「何がですか?」
「お前が、そうやって他人に為の何かをしようとする事が、だ」
 その返答に、健は苦笑する。
 言われるまでもなく、それは彼自身ですらが思っていた事だからだ。
 周囲の人間の評価で言えば、健が損得抜きで行動する事は酷く珍しい事態だった。
 確かに今回の件は傍から見れば報酬額という美味しい付属品がついている様に映るのかもしれない。それでも、彼をよく知る人間(そうそう居はしないが)には多分すぐにでも『そうではない』と知れるだろう。
 今彼を動かしているもの、それは報酬だとかそんな物ではないのだ、と。
 それが一体何なのか、その答えを健自身未だ持ち得てはいないようだけれど。
 少なくとも、と小次郎は思う。
 今回の件は、きっと隣に座る相棒を、変えていくのだろう。何の根拠もない、言ってみればただの勘に過ぎないけれど、それでも多分それは間違いではないはずだ。
 そう、きっと。自分が、光と出会った時のように。



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