「…………戸籍?」
「うん」
 一樹の短い問いかけに、光はそう頷く。
 怪訝そうに寄せられた眉が、正しく彼の心情を表しているのだろ事は、容易に知れる。が、健も小次郎も、黙ったまま事の成り行きを見守っていた。
 クリニックに戻った二人を待ち構えていたのは、光の方だった。談合の結果を知りたがる光に手短に事の次第を説明すると、案の定、彼は箕沼への罵詈雑言を口にした。けれどその後に健が口にした提案により機嫌を直した彼は、でも、と呟いた。
 小次郎達が説明するより、オレが話した方がいいと思う、と。
 光と岬、二人の話によると、一樹が所謂大人の男に対して拒絶反応を示している、との事だった。談合後の打ち合わせをする為にクリニックを訪れた若林しかり、出入りの清掃業者しかり。気晴らしにと光がつけたテレビの映像にすら反応し、結局テレビは病室から運び出される始末。結局、クリニック内でも、同年代である光と、そして年代的には健達と変わらないが傍目から見れば光と同年代にしか見えない岬としか話せない状況に陥っているらしいのだ。
 健と小次郎の二人は確かに一樹を救った人間ではあるが、けれど多分、一樹にとっては『大人の男』に他ならないだろう。話が出来るとは、確かに考え難い。
 結局、光の言葉に従い、全ての話と説明は光の口から行われた。訂正する部分があったらいけないから、と健達も同席したが、今のところ口を挟む必要など皆無だった。
 一樹は部屋に入ってきた彼らを無表情で迎え入れ、そして黙ったまま話をただ聞いていた。
 話が新たな戸籍の取得に及んだ時、ようやく一樹が反応したのだ。
「一樹さえよければ、新しい戸籍で、新しい生活をする事が出来るって。箕沼の家に戻りたいとは思ってないんだろう? だったら、いい機会だとオレは思うよ? 勿論、オレ達で協力できる事は力を貸すし」
「………………どうして?」
「え?」
「……………そんな事して、何のメリットがあるの?」
「何のって、一樹の好きなように」
「違う。オレのメリットじゃない。そっちの、メリット」
「そっち?」
「見ず知らずのガキに新しい戸籍作ってやって、それでどんな利潤がそっちに入るの? まあ口止め料を箕沼から貰えるって利益は確かにあるのかもしれないけど。でも、その後に何があるって? 言っとくけど、箕沼を出ればオレには何も価値なんてないよ ?新しい戸籍? ……安い値段で出来るものじゃないだろ。そのお金、どこから得るつもり? その後の協力なんてしてもらっても、何もでないよ? 分かってるの? 今のオレは文無しで、後に残る物なんて何もない。………そんなガキを構って、それで何のメリットがあるって言うの?」
 大人びた、いや正確に言えば、冷めた眼差しで。彼はその場にいた全員を眺めながら、そう告げる。
「確かに」
 暫しの沈黙を破ったのは、小次郎のその一言だった。
 不意のその声に、小さく一樹の肩が跳ね上がる。その様子を見て取り、小次郎は可能な限りの抑えた声で言葉を続ける。
「メリット・デメリットって話で言えば、俺達に必ずしも利益があるって話じゃあないだろうな」
「小次郎ッ」
「……最後まで聞け」
 非難するような光の遮りに、小次郎は小さく苦笑しながらそう返す。
「だがな、そんな事を気にするくらいなら、端からこんな話を持ち込みはしない。いや、それ以前にとうの昔にお前の身柄を、箕沼に引き渡してるさ。少なくとも、お前が箕沼一樹だって判った時点で、箕沼と取引を済ませてる」
「…………………それで?」
 気丈にも小次郎の目を真正面から捉え、一樹は小さくそう問う。
「だから、何?」
「損得抜きで成り立つ事だって世の中にはあるって事だ」
「……………それを、信じろって? オレに?」
「一樹」
「…………話になんないね」
 一樹はそう言い捨てると、起こしていた身体をベッドの中へと沈めて目を閉じる。
「一樹?」
「………………好きにすれば?」
「え?」
「そっちの気が済むようにすればいい。でも、その結果にオレは責任取らないから。後で損しただ何だって言われても知らない。何を請求されても応える義務はない。それでも構わないなら、好きにすればいい。オレは、知らない」
「一樹ッ」
 投げやりなその答えに、光が思わずそう声を上げる。
「光」
 しかしその呼び声に光は口をつぐむと、小次郎達を振り返る。
「………………新しい戸籍は二・三日中には出来るだろう。その後の事は、それからだ」
「でも」
「許可は下りたからな、気の済むようにやらせて貰う、それだけだ」
 小次郎はそう言い置いて、踵を返した。尚も物言いたげな光の肩を軽く叩くと、健もその後姿を追って部屋を出て行った。
「一樹」
 呼びかけの声に、一樹はゆっくりと目を開く。
「…………信用、出来ない?」
「………………………ごめんね」
 光の短い問いかけに、消え入りそうな声がそう答える。
 悪いとは、思う。それでも、掛け値なしの言葉だと鵜呑みに出来るほど、純粋な心を持ち合わせる事が出来る生き方を、自分は今まで過ごしてきては、いないのだ。
 一樹は自嘲気味な笑みを浮かべ、再び目を閉じる。
「……………それは、オレも?」
 一瞬の沈黙の後、不意に零れた声に、一樹は目を見開いた。そして、傍らの光を見上げる。
「オレの事も、信用出来ない?」
「…………………解ら、ない」
 真摯な瞳の問いかけに。一樹は躊躇いながらも、それでも正直にそう返した。
 自分が信じられないのは、大人なのか、それとも他人、なのか。本当は、今の一樹にはそれすら解らない。
 目の前の彼の真摯な瞳を疑う理由なんて、何もない。
 けれど。
 ………自分は一体、どっちなのだろう。
 信じたいのか、信じたくないのか。
 沈黙した一樹に、光は微かに眉を顰めた。それは決して、一樹を非難しての事ではない。そう、それは多分、その姿に過去の自分を見た気がしたからだ。けれど、それを口にする事はしない。いや、出来ない。
 これは、彼が、一樹自身が自分で答えを見つけていかなければならない事。
 だから、光はそれ以上言う事を自分自身に禁じて、思考を切り替える。そして迷いを振り切るようにカラリとした笑みを浮かべると、ベッド脇に立った。
 その気配に顔を上げた一樹の肩口まで毛布を引っ張りあげると、笑んだまま告げる。
「ごめん、今のなし。忘れていいよ」
「……光ちゃん?」
「今は体治すのが先決。な?」
「……………うん」
 光の念押しの言葉に、一樹は小さく頷き、目を閉じた。
 胸中を駆け巡る、自分自身への嫌悪感を無理に噛み殺すようにして………。



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