「何つーか」 通された部屋の中を見て、小次郎が零す。 「シンプルって言うのか? ……いや、質素、か」 その言葉に、健も内心で頷く。 通されたのは箕沼の屋敷の敷地内に建てられた、別邸。大きさでは劣るが、それでも本邸同様半端ではない内装の豪邸だった。 しかし。彼らの目的地だった、その一室は。 小次郎の言葉を借りて言うならば、驚くべき程に質素だった。広い室内には、必要最小限の家具。色彩のない部屋。 この部屋で、彼は一体どんな風に生きてきたのだろう。 母も、そして父もすでになく。身内と呼べる人間と同じ敷地内とはいえ、一人この豪邸に住み。食事や屋敷の世話をする人間が住み込みで何人かいたとは言うが、実質は一人で住んでいたようなものだ。 持て余す程の空間。それに相反するかのような、その部屋は。どこか、悲しい匂いがする。 「…………さて。さっさと作業をして、早々に退散しましょうか」 健の言葉に小次郎は頷く。 つい数分前に、箕沼との最終的な談合を済ませてきたばかりだが、可能ならこんな場所からは一刻でも早く立ち去りたい、というのが、小次郎の本音だった。 岬の勧めもあり、談合には健と小次郎、そして共通の友人でもあり、その世界では名前の知られた所謂敏腕弁護士なる肩書きを持つ三杉を伴って出向いた。 別に報酬金額や、口止め料云々の為ではない。あくまで、一樹の身柄の安全確保の為だ。箕沼と縁を切るとこっちが言ったとしても、どれだけ相手が納得するか分かったもんじゃない。だから、その保証を得る為に。 今後一切、箕沼とは関わらない。だが、それと同様に、二度と箕沼側も一樹に関わらない、要は手出しを一切しない、その念書を作成する事が目的だった。渋る箕沼の一族と弁護士を、ほぼ一喝に近い形で了承させる辺り、三杉のその肩書きに偽りなしといった所か、等と妙に感嘆したのだった。 「って言ってもなあ。何をどうする?」 小次郎の言葉に、後方から三杉の声。 「………彼が固執している持ち物は、そんなになさそうな気がするけれどね、一見した所」 恐らく、その指摘は的を射ているのだろう。生活感の伺えない室内。悲しい匂いと思えたのも、きっとその所為だ。 「かと言って、本人に尋ねるわけにもいかねえしな」 「そうですね………」 「とりあえず。若島津の調べた所によれば、彼の母親が生前彼名義で貯めていた預金があるはずなんだろう? その通帳と印鑑、最悪それだけでも持ち帰れば良いんじゃないのかい? それと、そうだな。あるのならば、母親と一緒の写真とか。少なくとも、彼は母親の事は大事にしていたみたいなんだし、それで十分なんじゃないのかな。ここでの生活に執着してたわけじゃないなら、尚更ね」 しかしよくそれだけの事調べ上げたね、若島津。時間少なかったっていうのに。 そう感嘆したように呟きながらも、三杉は室内を見渡した。 「………………本当に、何もないみたいだね」 「……時間が勿体無いな。本腰入れて探すぞ。通帳と、写真だな?」 小次郎の声に、健は我に返る。 部屋の中に漂う、凍え切ったような、けれど同時に寂しいような、そんな空気。此処で過ごしていた彼が残したのだろう、感情の残骸。見えるはずのない、そして残っているはずもないそんな思念が、けれど健には感じられるような気がして仕方がない。 此処を出る事で。 少しでも、それを拭い去る事が出来るのだろうか。 「若島津?」 不意にそう名を呼ばれ我に返る。 「手がお留守になってる。珍しいね」 三杉の指摘に、苦笑する。 「はい、通帳と印鑑」 「何だ、もう見つけたのか?」 三杉の言葉に、戸棚の中を探していた小次郎が振り向く。 「こういうのを仕舞って置く場所なんて、限られているだろう? 人間心理としてはやっぱりね。あとは写真かい? ホラ、ぼーっとしてないで君も探す。言っておくけど、これでも僕は多忙な身なんだよ。時間を無為にしないで欲しいね」 その言葉に苦笑しながらも頷いて、彼も探索に加わるのだった。 「じゃあ、話はちゃんとついたんだな?」 話を聞き終わった光は身を乗り出し、そう確認する。 「なんだい、光は僕の手腕を信じてなかった?」 「そういうわけじゃないけど、でも相手が相手だから、やっぱ心配じゃん」 「まあ確かにね。でも、あれくらいの相手なら、全然。可愛いものだよ」 三杉はそう言って、出されていた紅茶を飲み干すと、さて、と立ち上がる。 「じゃあ僕は帰るよ。新しい戸籍が準備出来たら連絡してくれたまえ。箕沼名義の預金を移し替える手続きが必要だろうからね。他にも必要な事柄があるだろうから、そこら辺はこちらで調べておくよ」 「ああ、頼む」 健の返事に三杉はにこりと微笑むと、その代わり、と返す。 「後日ちゃんと光と彼を食事に誘わせてもらうからね、よろしく」 そう言って出ていく三杉に、居合わせていた岬が小さく笑う。 「ほんと、三杉君はキレイなものが好きだよねぇ」 その言葉に、小次郎が小さく眉を寄せる。 いわゆる疚しい部分とは別で、純粋にある意味愛でる対象として、三杉が光や岬を好んでいるということは、もう今では周知の事実だ。美しいものを鑑賞することの、どこが問題だと? とサラリと言い放つ三杉に、誰もが苦笑するしかない。 だからと言って、はいそうですかと光をたびたび連れ出されてはたまったものではない。もちろん光も、小次郎が不機嫌になるのを分かっているので、たびたび三杉の誘いを丁寧にお断りしている。 だからこそ、今回の件で協力報酬として、光とそして何故か同様に気に入ったらしい一樹と一緒の食事の許可を、などと三杉が言い出した際には、複雑な気分に陥ったものだった。 が、しかし、腕が立ちこちらの事情も汲んだ上で協力をしてもらえる弁護士など、そうそういるはずもなく、渋々(小次郎が)その条件を受け入れたのだった。 「でも、あれいいの?」 「ん?」 「光は本人が良いって言ってるから問題ないけど、彼」 「………そこらは追々だろう。どうせ三杉本人だって、その点が保証されるもんじゃないことぐらい分かってるだろうし」 岬の言葉に健はそう答えると、光を見やる。 「彼は?」 「眠ってる。痛みがひかないみたいで、岬が鎮痛剤うってくれてるから、多分それもあって」 「そうか。じゃあ、これはまた彼が起きてからでも構わないから、渡しておいてくれ」 「これ、さっき言ってた通帳?」 「それから、勝手に必要だろうものを持ってきた」 「必要?」 「アルバムとか」 「ああ、そっか。ああでも、これさ、オレじゃなくて健が渡せよ」 「俺が?」 光の言葉に、健が目を丸くする。 一樹の拒否反応を一番目の当たりにして、だからこそ先日の説明を請け負った光の、それに反するような言葉に、隣に腰かけていた小次郎も光を見やる。 「いや、うん、言いたいことは分かるけど」 二人の視線に、光はそう答える。 「でもさ、これから大人と接しないわけにもいかないだろ?」 「それはそうかもしれねぇが」 もう少し時間をおいてもいいんじゃないか、そう返そうとした小次郎を、光の声が遮る。 「それに、それはさ。健達が一樹に必要だって思って、探して持って帰ってきてくれたものだろ? だったら、ちゃんとそうやって話して、渡してやった方がいいと思う」 光の言葉に、健は手元のそれらに目を落とした。 「どうしても、ってなったら、オレがまた後で考えて渡すし」 更に続いた言葉に、ようやく健は頷いた。 「ん。じゃあ一樹が起きたら、呼びにくる」 光はそう言い残し、部屋を出て行った。 「さて、じゃあ僕も戻るね。ああ、部屋に光が食事の準備してたから、一樹くんが起きるまでゆっくりしてると良いよ。お疲れ様」 岬もまたそう言い残し、部屋を出て行く。 「いいのか?」 「え?」 「渡すの。下手すりゃ更に向こうに警戒されるぞ」 「………どういう意味ですか」 「正直、今一番あの子に関わりたいと思ってるのはお前だろ」 小次郎の言葉に、健は目を丸くする。 「今、どころか、これから先も」 「それは……」 「じゃなきゃ、今頃こんなことにゃなってねぇだろ」 言いながら小次郎は立ち上がる。 「だからまあ、光の言う通り、お前が渡してやるのが良いんだろうと俺も思う。でも更に後のことを考えりゃ、まだ早いんじゃねぇかとも思う」 こればっかは、やってみなけりゃどう転がるかは分からねぇ問題だわな。 そう言って一つ大きな伸びをすると、扉へと向かう。 「ま、もう少し時間あんだろ、その間にもう一回考えろよ。ほら、飯食いに行くぞ」 「え? ああ、そうですね」 先に立って出て行く小次郎の後に続きながら、健は手にしたそれらに改めて目をやった。そして、光の、小次郎の言葉を反復する。 関わりたい。 その言葉が妙にストンと、健の中に落ちる。 ああ、そうか。俺は彼と関わりたい、そう願っているのだ。 きっかけなんて、理由なんて、分かりはしない。 けれど確かに。 彼の隣に、傍に在りたい、と。確かに自分はそう思っている。 あの冷めた、全てを諦めきった色を見せながら、けれどその奥底に見える、おそらくは寂しさをともなったその瞳が。 綻ぶさまを見たい。 確かに、そう思っているのだ。 |