「………そう」 数日中に新しい戸籍は出来るとの言葉に、一樹は言葉みじかにそう返す。 「何か希望は?」 「希望?」 その言葉にようやく一樹は健の方へ顔を向ける。怪訝そうに寄せられた眉に、健は小さく苦笑して。 「今までに説明したことに対して、何か希望はないかと思って。たとえば苗字とか」 その言葉に更に眉を顰めて、別に、と一樹は返す。 「そうか。じゃあ、こっちで進めていくけど構わないかな」 「好きにすれば」 一樹はそう言うと、もう良いだろ、とでも言うように目を閉じる。 「ああ、それから」 けれど続いた健の言葉に、一樹は眉を寄せたまま目を開けた。 「まだなにかあるの」 「これを」 「…………何」 差し出された袋に、一樹は短くそう返す。 「不要なものがあれば、言ってくれ。こちらで処分するから。それから、もし他に必要だったものがあれば言ってくれ。交渉して希望に沿うようにする」 「交渉……?」 言いながらようやく袋の中を覗き込んだ一樹は、小さく息を飲む。 「……………これ……」 「申し訳ないけど箱の中は一度確認させて貰った。だがその後、中身について抜いたり入れたりはしていない。そのまま持って来ている。それから、それとは別に、これ」 そう言って差し出された通帳に、一樹は目を見開く。 「箕沼一樹の名義にはなっているけど、入金日付から君のお母さんが君のために貯めていたものだと思うんだが、間違いないかな」 その言葉に、一樹は小さく頷いた。 「これ以外にはあるのか?」 「………ない。それだけ」 「そうか。じゃあ、これに関してだけは、君の新しい戸籍名義で口座を取得するが、構わないね?」 その言葉に、再度一樹は小さく頷く。 「その袋の中身について、過不足はないかな」 「………ない」 「そうか、それなら良かった」 健はそう言って立ち上がる。 「この通帳だけは預からせてもらうけれど構わないかな」 コクンと頷いた一樹の目は、けれど袋の中にじっと注がれている。 その様子に、健は小さく笑んで。あとは頼む、そう枕側に付き添っていた光に告げて、部屋の扉を開く。 と。 「……………ありがとう」 小さな声に、健は振り向いた。 一樹は俯いたまま、袋を大事そうに抱き締めていた。 小さく、その肩が震えている。 「これ……………持ってきてくれて、ありがとう」 微かに震えるその声が、健の胸を締め付ける。 泣いているのだと、告げる、その声音に。健は再びベッドサイドへと戻ると、そっとその頭に手を乗せて、そっと撫ぜる。 「役に立てたのなら良かったよ」 その言葉に一樹は答えなかったけれど、健は構わずもう一度くしゃりとその頭を撫ぜて。 「じゃあ、あとは頼む」 光に告げて、健は今度こそ、部屋を後にした。 「………………一樹、平気?」 光の声に、一樹はコクンと頷く。頷くけれど、そのまま一樹は抱きしめたそれに顔を埋めて、肩を震わせる。 光はその様に、そっとベッドに腰かけると、一樹の頭を抱き寄せた。 「オレしかいないからさ」 だから、我慢せずに泣いちゃえばいいよ。 あやすようにその背を撫でてそう告げれば、小さな嗚咽が零れる。 大丈夫、大丈夫だから。そう言って撫ぜる手に、けれど一樹は顔を上げることなく、ただただ噛み殺した小さな嗚咽を零すだけだった。 「………そりまち?」 数日後。準備のできた戸籍の名前を告げると、一樹がそう返す。 その声に、健は頷いた。 「………別になんでもいいけど」 一樹の返答に、傍らで聞いていた光が、場を持たせようと思ったのだろう、でもと続ける。 「何で、そりまち?」 「縁のある名前の方がいいだろうと思ってな」 「縁?」 光の声と同様に、小さく一樹も眉を顰める。その様に、その名前に一樹がまったく心当たりがないのだろうことを、光は理解した。 「縁って?」 「………………母の旧姓だとでも? だったら」 「いや、そうじゃないのは分かっている。最初はそれでとも思ったんだが、それだと場合によっては箕沼の目に触れた時に、あまりいいことにはならないだろう」 どれだけ関係を断つとは言っても、なんらかの形で、どこかで繋がらないとも限らないのだ。容易に考えられる名前は避けた方が賢明だろうと、母親の旧姓とする案は早々に外されたのだ。 「じゃあ」 「本来なら君が名乗っていただろう名前だよ」 「……………どういうこと」 「君はお母さんから何も聞いていない?」 「なにを」 「君のお父さんの話」 「………父親?」 健の言葉に、一樹は眉根を寄せる。 「それは、箕沼の……」 「ああ、やはりそう聞いているのか」 「………どういうことだよ」 「君のお母さんには、結婚するはずだった人がいたんだ」 「するはず、だった?」 「箕沼の先代からの申し入れにも、だから彼女は頑として頷かなかった。けれど、一緒になる目前で、反町氏は事故で亡くなってしまった」 その言葉に、一樹の細い指が、手元の蒲団をきつく握りしめるのが目に入る。 「君のお母さんには、身寄りがなかったことは?」 「……………知ってる。あげく、あまり丈夫な身体じゃなかった」 「そうだね。だからそのことを理由に、箕沼の先代が……」 そう言って、次の言葉を選定しようとする健に、一樹が小さく嗤いながら、その後を引き継ぐ。 「頼る親戚の一人もいない母さんを、庇護するとかなんとか言って自分の妾にした、だろ?」 その言葉に、瞬間言葉を詰まらせた健に、いいよ気にしないで、そう告げて一樹は再度嗤う。 「続けて」 「……………けれど、その時にはすでに彼女のお腹には、一樹、君が居た」 「だから、オレは箕沼の子じゃないって?」 「そうだ。君は箕沼ではなく、君のお母さんと反町氏の子供で」 箕沼とは無関係、そう告げようとした言葉は、一樹の嗤い声に掻き消される。 「一樹?!」 驚いたように名前を呼ぶ光に返すこともせず、暫く嗤い続けた一樹は、ようやく声を収めると立てた膝に顔を埋める。そして。 「はッ、道理で、あのジジイに迷いがなかったはずだ……迷う必要なんかどこにもありはしなかったんだからな」 「一樹?」 「………………おかしいと思ってたんだ。いくら、オレが……母さんに似てたからって………………でも、知ってたなら」 その言葉の不穏な空気に、健が、岬が、息を飲む。 「はなから、血の繋がりがなけりゃ………躊躇う必要なんかない……………オレはただの……好都合な、身代わりだ」 「一樹くん」 慌てて駆け寄った岬の手を、一樹の手が振り払う。 「……触るな」 「一樹くん」 「…………………………前にも言ったよね、オレ。好きにすればいいって。もう、どうでも、アンタ達の好きにしてくれたら、それで、いい」 「一樹」 伸ばされた光の手をも、一樹は跳ね除ける。 「かず……」 「ごめん光ちゃん…………放っておいて」 「光」 岬の呼び声に、光は今にも泣きだしそうな顔で、岬を見やる。ここにきて、彼も一樹が言わんとすることの意味を悟ったのだろう。 「夕食の時間にまた来るよ、いいね?」 岬の言葉に、かろうじて頷くことで一樹は応える。 それを見届け、岬は光の背を押し、そうして健をも促した。 今の状況で、無論健に否があるはずもない。健は頷き先に立って部屋を出る。 少し離れた、ここ数日健と小次郎に用意されている部屋に戻れば、思いの外早い帰還に、小次郎が眉を寄せた。 どうした、そう尋ねるよりも早く。 「みさき……さっきのって………」 堪え切れなかった涙を瞳いっぱいに浮かべながら、光がそう尋ねる。その様に、小次郎は立ち上がるとその頭を抱きかかえる。 「どうした」 その問いは、健と岬に向けられる。すでに光は小次郎の胸に顔を埋め、泣き出していた。 「………裏目に、出ました」 「どういうことだ」 小次郎の言葉に、ぎゅうっと、光が縋り付く手に力を込める。 「光?」 「……………さっきの……そういうこと……?」 言葉を濁した光の疑問符に、健も、岬もきつく眉根を寄せたまま、返す言葉を見失う。 「かずき……ひどい………なんで……そんなこと」 「光?」 事情が飲み込めない小次郎は、宥めるように光の背を撫でながら、そう声をかける。 「なんで……似てても、一樹は一樹なのに……! なんで、父親にッ、そんなのッ」 「父親? 箕沼の先代のことか? それなら、戸籍だけのことで」 「それでも! 一樹の父親だろ?! なのに、そんなの、こないだの奴らより酷いッ!」 この間の奴ら、その一言で、小次郎は話の流れを理解した。 「まさか」 「……………………そういう、ことのようです」 箕沼との繋がりを、血縁の上でも関係のない連中なのだと、そうして本来の父親がいたのだということを示すことで、少しでも一樹が新しく歩む意欲を持ってくれたなら、そう思ってのことだった。そのために、過去に遡り、その本当の出自を探し出した。 けれど、それが。 その事実を、より鮮明に炙り出した。 例えその出自が判明していなくても、彼の身に降りかかったその理不尽な愚行は消えるものではない。消えるものではないけれど。 そこに己の意思のない、強いられた交わり。 と。 ガシャンッ! 派手な破壊音が、廊下の向こうで響く。 「ッ!」 その音に、健が部屋を飛び出す。その意味を理解し、他の三人もその後を追う。 「一樹!」 健の手が、一樹の腕を掴む。 ベッドサイドのテーブルの上に飾られていた花瓶が床に散っていた。テーブルも、椅子も引き倒され、ベッドを囲むカーテンが、レールから引きちぎられ、一樹の腕に絡む。 「一樹!」 「一樹ッ、落ち着いて!」 「離せよッ」 「一樹!」 「離せッ!」 「一樹くん、落ち着いて!」 「一樹はなんにも悪くないじゃん!」 光のその言葉に、一樹の動きが止まる。 居合わせた面々が、ほっとしたのも束の間。 「悪くない? オレが?」 感情を映さない瞳が、光を捕らえた。 はッ、小さな嘲笑が、その唇から洩れる。 「どこが?」 「一樹」 「オレが、元凶だろ」 「一樹?」 「………母さんの中にオレさえいなけりゃ、母さんは囲われる必要なんかなかった。たとえ身寄りがなくても、その身体が丈夫じゃなくても、あんなジジイの妾になんてならずに済む方法は幾らでもあったはずだ」 それでも彼女が、その道を選んだこと。それはすなわち、内に宿る子供を守るため。 好いてもない男の妾となり、後妻となり、弄ばれ、箕沼の一族に疎まれ、それでもそれを受け入れた理由がなんだったのか、など。容易に想像がつく。 「オレが………母さんを箕沼に縛り付けたんだ」 そして。 「オレが、母さんを殺した」 「一樹?!」 「自分勝手な男だったさ、あのジジイは。どれだけ母さんの体調が悪くても、そんなのお構いなしで、閨の相手を強要した。どれだけ体調が悪くても、妻として会合やらパーティーやらの供をすることを強要した。自分の妻はどうだ貴様らの妻に比べて美しいだろう、思慮深いだろう、正に妻の鏡だろう、そうやって見せびらかして自慢をするためだけに連れ出して……。そんなところに連れ出されたって、なにが楽しいもんか。周りは好奇の目で母さんを見る。くだらない吹聴を、これみよがしに口にする。家に戻れば、妾風情が我が物顔で妻を気取って何様のつもりだと、先妻の子供をはじめ一族が陰湿に攻め立てる。そんな状態で身体だけじゃない、精神的な心労がたまらないはずがない」 少しずつ、少しずつ、蝕まれていく身体。疲弊していく精神。 そんな状態で、それでも母が箕沼に身を寄せていたのは、自分の存在があったから。 妻として迎え入れられながら、別邸での慎ましやかな生活を強いられた彼女は、それでも一樹にとっては優しい母親だった。けれどその裏で、どれだけの苦痛を強いられていたのかを、一樹は幼心にも分かっていた。 「それでも、母さんは箕沼から逃げなかった。逃げられなかった。……オレが居たからだ。オレが母さんを箕沼に縛り付けて、そしてそれが母さんの命を縮めた。だから」 オレが殺したんだよ、一樹はそう言って嗤うと、掴まれた手を振り払い。 ガシャンッ! 床に散らばるガラスの上に、その手を打ち付ける。怒りをもって。 「オレが殺したんだ!」 「一樹!」 血の滲んだ手を慌てて取り上げ、健はその腕を再び拘束する。 「離せッ! 離せよッ!」 「一樹!」 逃れようと身を捩る一樹の身体を、なんとか腕の中に閉じこめ、健はもう一度強くその名を呼ぶ。 「それでも彼女はお前を愛していただろう?! お前という存在を誰よりも愛していたはずだ! それは、他の誰でもないお前自身が一番よく分かっているはずだ!」 尚も逃れようと暴れていた身体が、その言葉に凍り付く。 「自分を責めたい気持ちは分かる。だけどそれはお前が愛した、誰よりも大事にしていた母親の生きた全てを否定することになる。それがお前の望みか? 彼女の望みか? 違うだろう? そんなこと、お前はもう当の昔から知っているはずだ、違うか?」 静かに、諭すように告げた言葉に、一樹の強張っていた身体から徐々に力が抜けていく。握りしめていた拳から力が抜け、そうして、小さな嗚咽が零れ落ちる。 「………一樹」 一樹の傍らで息を飲み様子を窺っていた光が小さくその名を呼ぶと、そのまま一樹の身体は光に縋り付く。泣き喚くでなく、嗚咽を押し殺しながら、ただただ静かに涙を流す一樹を、光はしっかりと抱き留めて。 「大丈夫……大丈夫だから」 だから我慢しないで泣いちゃえばいいんだよ、その言葉に、一樹は小さくしゃくり上げながら、泣き疲れて意識を手離すまで、静かに泣き続けた。 |