一樹が次に目覚めた時、居たのはそれまで居た部屋とは異なる部屋だった。
 室内の様子は、さほど変わったものではないけれど、ベッドから見える窓の位置と、そして窓の外の景色とで、そうと理解する。
 そりゃそうか。
 一樹は胸中で小さくごちる。
 あれだけ暴れて、カーテンまで引きちぎって、そんな部屋に彼らがそのまま自分を居させるはずがない、そう思う。
 ぼんやりと、窓の外を眺める。窓を開けたいけれど、はたして彼らはそれを許してくれるだろうか。
 ふと思いついて己の手元を見やれば、白い包帯。痛みはさほど感じないけれど、思うように動かせないことに小さく眉を顰める。
 ああでもそれは自業自得のことだ。
 と。控えめなノックの音に扉を見やれば、朝食を乗せたトレイを手に、光が顔を覗かせた。
「あ、起きてた? おはよ、一樹」
「おはよう、光ちゃん」
 返した言葉に、光が安堵の笑みを浮かべる。
「朝ごはん、食べよ?」
「うん」
 一樹が頷くのを確認して、光はテーブルを設えると一樹の分の朝食と、そうして自分の朝食とをテーブルにと置き、傍らの椅子に腰を据える。
「昨日、夕飯食べないままだったから、お腹空いてるだろ? しっかり食べて、早く治さなきゃな」
「……………でも、これ多すぎない?」
「ないない。ほら、食べよ。頂きます!」
 光の声に倣って一樹も頂きますと口にして、箸を取る。今日は和食だ。味噌汁を一口飲んで、それから、ああと思い出したように一樹は零す。
「ん?」
「窓……」
「ん?」
「開けてもいい?」
 一樹のその言葉に瞬間きょとんと目を丸くして、ああそっか、そう光は呟く。一体なにがそうかなのかと一樹が尋ねる間もなく、光は立ち上がると窓へと向かう。
「一樹、足が痛いんだもんな。開けられないか」
 その言葉に、ああそれがそうかの意味かと一樹は納得し、ふふふと小さく笑う。
「一樹?」
「ううん、なんでもない。窓、ありがと光ちゃん」
 一樹はそう言ってから、気持ちいい風、そう呟き目を閉じる。
「寒くないか?」
「大丈夫、ありがとう」
 一樹の言葉に光は頷いて、それから椅子に座るともぐもぐと朝食の続きに箸を伸ばす。そんな様子を見ながら、一樹も食事を再開する。
 一樹が窓を開けなかったのは、彼らが窓を開けることを嫌がるかもしれない、そう思ったからだ。昨日の今日で。高層というわけではないだろうけれど、明らかに一階ではないだろう部屋の窓を開けることに対して、彼らが変な危惧を抱いていたとしたら、そうである内に自分で窓を開ける、いやそれ以上に窓辺に寄る行為はきっと心配をかける、そう思っていた。
 でも光は足の所為で窓を開けられなかったと判断した。それは本当にそう思っているのだろうか。それとも、自分がそう考えて自ら開けることを躊躇ったと分かっていて、ワザとそう言ったのだろうか。
 どちらにせよ。それは彼の優しさの現れだ。まっすぐで、純真で、優しい。眩しいほどに。
 自分は彼のようにはなれないけれど。
 でもせめて。彼のその気持ちにだけは応えられるように、そうありたい、と思った。
 これまでの人生で初めて。そんな風に、思えた。


「光ちゃんの家?」
「そう」
 光の返事に、一樹は小さく首を傾げる。
「でも、いいの?」
「よくなきゃ言わないし。大丈夫、うち広いから」
「でも」
「広いのは本当だよ」
 助け舟のように岬がそう告げる。
「あの屋敷にたった2人だなんて、そもそも持て余しすぎだよね」
 その言葉は、一樹ではなく壁に背を預けて立つ小次郎に向けられたものだった。
 その様子に、つまりは、光の家というけれど、どちらかと言えば小次郎の家なのだと、そう理解する。
「いいの?」
 再度の問い掛けはどちらかと言えば小次郎に対してという心づもりだったのだけれど、気にした風もなく光が大きく頷く。
 あれから数日。怪我の具合もだいぶよくなり、そうして戸籍の準備も整ったということで、そろそろ退院してもいいかな、そう言った岬の言葉に、待ってましたとばかりに光が言い放ったのが『うちに来ればいい』という言葉だった。
「本当に、いいの?」
 躊躇いがちに、けれど重ねて一樹がそう尋ねるのには、もちろん訳があった。
 さほど長い間ここにいるわけではないけれど、しかしその短い間だけでも、光と小次郎が深い仲……端的に言ってしまえば恋人同士なのだろうことは容易に知れた。
 と、言うことは、そんな二人の住む家に、自分がのこのこと顔を出してもいいものか。
 それでなくとも、一樹が此処に身を寄せてからもうここずっと、光は一樹に付き添っていて、ようは家には戻っていないはずだ。その役目がようよう終了するかと思えば、今度は自分が彼等の住処に転がりこむなどと、さすがに一樹とて躊躇わずにはいられない。
「大丈夫だってば。だいたい、他に何処に行くつもりだよ。良くなったって言っても完治したわけじゃないんだし、これから新しい生活基盤作らなきゃならない状態なのに、放っておけるわけないだろ」
 確かにそれは光の性格上、そう思うのも当然だ。当然だけれど。
「でも……」
「後々のことはまだこれから考えればいい」
 一樹の躊躇いを察してか、小次郎がそう告げる。
「とりあえず、このまま此処にいるわけにゃいかねぇだろ」
「僕としては別に居てくれても構わないんだけどね。でもまあ確かに僕だけじゃ一樹くんの相手をずっとしてあげられないし、光の所なら屋敷内を歩くだけでもリハビリになるだろうし、僕としても退院するなら光の所に居てくれるのが一先ずは安心出来るんだけど」
「ほら、な? 決まり決まり」
 小次郎、岬と続いた言葉に、勢い込んで光が続けたのに、ようよう一樹は頷いた。
 躊躇いを消せぬままのその表情に、その意味を正確に汲んで健が小さく苦笑する。
「よし、じゃあオレは今日は家に戻るから、後は頼むな健!」
「え?」
 光の言葉に、一樹が小さく眉根を寄せる。想像していた通りとはいえ、あまり嬉しい表情ではない。
「だって光の部屋の準備しなきゃ。小次郎になんか任せれないし!」
「別にオレは一人でも」
「だめだめ。岬はクリニックの仕事で忙しいし、そんな状態で一樹一人にしたら、油断すると一樹ちゃんと飯食わないだろ」
 その言葉に一樹はあいまいに笑ってみせる。
「じゃ、頼んだからな健! まずは昼飯から!」
「分かってるよ」
 健がそう答えると、光は満足そうに頷いて、じゃあ明日の昼には戻るからと言い置いて、小次郎と共に部屋を出て行く。岬もじゃあ僕も仕事に戻るねと部屋を出て行き、健一人が部屋に残ることになる。
 一樹はなんとも居心地の悪いまま、窓の外を見ていた。未だ、光と岬以外の人間とはどう接すればいいのか分からないままなのだ。
「……………気にしてるのは」
 と、不意の言葉に、一樹は室内へと目を戻す。まっすぐに自分を見る健の眼差しに、どうすればいいのか分からず、そのままただ言葉の続きを待った。
 一方健は、目を合わせてくれるようになっただけでも進歩か、そう思いながら言葉を続ける。
「あの二人の所に、行くってことか?」
「え?」
「………端的に言えば、お邪魔虫になることに、気が引けてる」
「…………だって、そうでしょ?」
「まあなぁ」
 健の呟きに、彼等が恋人同士という自分の認識に間違いがなかったのだと理解する。
「でもまあ光が言い出したらきかないのは周知の事だし、あの人もそこまで心は狭くない、筈だ」
 はず、なんだ。そうは思ったが、口にすることは控えた。例えそうでも、今日までの状態がそれを上回る可能性だってなくはないのだろう。
「まあ、どうしても気になるなら、そうだな」
 と、不意に思案顔となった健の顔を、一樹は怪訝そうに見つめる。
 何を言い出すつもりだろう。
「一週間程は必要か……」
 一週間?
「さすがに日向さんの所みたいに、空いている部屋がごろごろしてるわけじゃないからな」
 日向というのが、光が小次郎と呼ぶかの人の苗字なのだと、その時になって初めて一樹は認知する。そういえば、目の前の男の苗字も自分は知らないのだと思い至る。そもそも、自己紹介などといった基本的なことすら、自分達はしていない。
「一週間もあれば、なんとか片付くが、どうする?」
「は?」
 意図の見えない疑問符に、一樹は思わずそう返す。
 なにが、どうする、なのか。
「お邪魔虫は気が進まないんだろう」
 それは、確かにそうだ。
「だったら、ウチに来るか?」
「ウチ……って、あんたの、ところ?」
 一樹は目を丸くしてそう問い返す。他に意味があるはずもないが、聞き返さずにはいられない。
「他にないだろう」
 けれど健は表情一つ変えることなく、そう答える。
「……ど、して」
 唖然とした一樹の声に、健は苦笑する。
「だから他にないだろう? 少なくとも、光や岬は、お前を目の届く分かりやすいところに留めておきたいと思ってる。心配だからだ。それは分かるな?」
 その言葉に、一樹は大人しく頷いた。
「でも、日向さんのところへ行くのは、気が引ける。それは俺も理解出来る」
 その言葉にも、大人しく頷く。
「だからといって、じゃあ、あいつらが納得できる場所が他にあるかといえば、そう多くない。まずは、此処。でもそれじゃあ今回の話自体に意味がなくなる」
 それはそうだ。此処を出るにあたって、じゃあ何処に行くのか、それを話しているのだから。
「他に何処があるかって、選択の余地はないだろう」
 光の家でもなく、岬のクリニックでもない、そうなった場合に彼等が選べる場所。なるほど、確かに他に候補があるはずもない。自分達の預かりしらぬところへ、彼等が一樹を行かせるはずがない以上、今の一樹が行ける場所など、無いに等しいのだから。
「どうする」
 それでも、あくまでも健は一樹の意思を優先させてくれるつもりらしい。それは多分、自分が一樹にとってあまり傍にいたくない類の人間に属していると理解しているからだろう。
 そんな人間と共に過ごすことを良しとするか、それとも気は引けるがお邪魔虫となることを選ぶか、どちらを選ぶかは自分次第だということだ。
「……一週間って?」
「部屋に余分はあるが普段は使わないから、ほぼ荷物置き場だ。片付け自体にそこまで時間はかかりはしないが、生憎明日から数日仕事で出なきゃならない。だから、一週間」
「…………光ちゃん、納得する?」
 その言葉に、健が目を丸くして見返してきた。
「なに? オレ変なこと言った?」
「ああ、いや」
 健はそう言って小さく咳払い。
「納得は、するだろう」
 お前が、言えば。
 その言葉に、今度は一樹が目を丸くする。
「え、オレが言うの?」
「他に誰が言うんだ」
「あんだが言ってくれればいいだけじゃないの」
「俺が言って納得するわけがないだろ」
「オレが言ったからって変わんないんじゃないの」
「変わるさ」
 一樹が思ってるままを素直に伝えれば。
 その言葉に一樹はえーっと眉を顰める。
「まあ、一日考えればいい」
 その言葉は、健としてみれば『自分のところにくるかどうか考えればいい』というつもりだった。けれど。
「なに言ったって、光ちゃん憤慨しそー」
 返ってきた一樹の言葉は想像外で。
「……なに?」
「いや。まあ、じっくり考えるんだな」
 健はそう言って、立ち上がる。
「岬には伝えておく」
「ん」
 なにを、とは尋ねない一樹に、内心驚きを隠せないでいたけれど。それはおくびにも出さず、健は部屋を一旦出る。
 まさか。
 そう呟く。
 まさか彼が申し出を了承するとは思わなかった。
 むろん、一樹としては気兼ねをするよりは自分が我慢をするほうが気が楽だとでも判断したのだろう。他に考えようはない。
 けれど思いの外早い決断に、どうしたって驚愕は隠せない。
 そして同時に、それを思いの外喜んでいる自分にも。
 馬鹿げている。
 一樹は、自分を、選んだわけではない。
 ただの二者択一から、状況を鑑みて選んだに過ぎないのに。
 それでも。自分と過ごすことを、彼が、彼自身で選んでくれた、そのことを浅ましくも喜ぶ自分は隠しようがない。
「参ったな……」
 そう呟きながら。
 それでも頭の中では、部屋に必要となるだろうものを無意識に並べたてている健なのだった。



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