「ここか」
 そう言って、その男は目の前の建物を眺める。
 個人の工房というには、広すぎる建物だが、その経緯を考えれば不思議でもない広さか、そう考えながら、ふむ、と頷く。
 それから、躊躇することなく、その横開きの扉を引く。
 人の姿はない。
 工房というわりに、作品の展示数は少ない。そもそも、ここで本当に商売をするつもりがあるのか、という佇まい。
「面白いじゃねぇか」
 だが、むしろその姿勢に興味そそられた。
 なるほど、『彼』の知り合いなだけある、といったとことか。そんな風に考えながら、ぐるりと見渡していると。
「………………誰だ」
 不意の声に、建物の奥に目を向ける。
 と、おそらくはその人影が、この工房の主、なのだろう。長身長髪の男。
「…………およそ接客には向かない出迎えの言葉だな」
 その声に、彼は躊躇うことなく眉を寄せる。
「少なくとも接客が必要な相手には見えないんでね」
「ま、そうだろうな」
 そう言って苦笑混じりに頷いた。
 たしかに、スーツ姿であげくサングラス装着の男が、この工房の顧客層にあたるとは思えない。
「何の用だ」
「ああ、知り合いに、あんたをベタ褒めで紹介されたもんでな」
「……知り合い?」
「そ」
 そう言って男は、かけていたサングラスを外す。と、驚愕に見開かれた目。
「あんた……」
「へえ。知ってたか」
「そりゃあ」
 そう言って彼−若島津健はますます眉を顰めた。
 少なからずデザイン業に関わっている人間からしてみれば、その男の存在は圧倒的に有名だろう。
 かつてのトップモデル、そしていまや国内外で有名なファッションブランドのオーナー、そんな肩書きを持つ日向小次郎という男の存在は。
「…………あんたみたいな人が、なんでこんなところに」
「言っただろ、知り合いにべた褒めで紹介されたって」
 心当たりは?その問いに、健は真顔で頭を振った。
 工房を構えているとは、ほぼ名ばかりで、宣伝をうっているわけでもなんでもない。人によっては、ただの道楽だという輩もいるだろう。その程度の、言ってみれば自分本位の工房だ。それを、こんな超有名人に紹介してくれるだう相手など、そうそう居る筈もない。
 けれど実際にこうやって、そんな所に彼が訪れているのだ。紹介した相手がいる、という言葉は事実なのだろうとも思う。
 が、どう考えてもやはり、そんな相手に心当たりはない。
「へえ? それも随分薄情な話だな」
 そう言って小次郎は手にしていたサングラスを胸ポケットへと納めた。と、ほぼそれと同時に。
「ただいまー」
 朗らかな声が工房内に響く。耳になじんだ、その声に健は我に返って顔を向ける。と、同様に顔を向けた小次郎の顔には、笑顔。それも、何かを含んだような。
「よう、お帰り」
 その言葉に健は目を見張り、おそらくそれとは異なった理由だろうけれど、同じように新たな声の主も、驚きで大きく目を見開いた。
「え?! うわぁ日向さん何で?!」
「なんでもなにも、絶賛お勧めしたのはお前だろ」
「それはそうだけど!」
 それらの会話に、健は再度目を見張る。
 どういうことだ、そう思いながら、なるほど今回のことの発端は、さも自宅に帰ってきたかのような言葉で此処を訪れた、年の離れた幼なじみだったかと理解した。
 と。今度は控えめに扉の開かれる音。
「ったく、だから一樹が戻ってくるまで待てって言ったんだよオレは。無駄にあちこち混乱させてんじゃねーよ」
「光ちゃん!」
「お帰り、一樹」
「あ、うん、ただいま」
 一樹はとっさにそう返し、それから改めて、光と呼ばれた彼と、日向小次郎の顔を見遣る。
「で、なんで?」
「だから、お前が勧めたからだろ」
「でも、来るとか聞いてないし」
「そりゃあ言ってないし」
「もー……」
「あーもう、進まねぇだろ、これじゃ」
「一樹」
「え、あ、はい、なに健ちゃん」
 そう返した一樹の表情が、ほんの少し緊張を帯びる。
 黙ってなにやら画策をしていたことを咎められるかもと思っているのだろう。健は小さく苦笑して。
「部屋に行ってろ」
「え?」
「……なんだかは知らないが、用事があるのは俺にみたいだからな」
「でも」
「一樹」
 光の呼びかけに、一樹は振り返る。
「路駐で切符きられるの嫌なんだよな。どっか停めるところある?」
「え、あ、えと」
「うちの駐車場に停めてもらえばいい」
 暗に光を案内しろとこめられた言葉に、一樹はうん、と小さく頷く。
「えと、じゃあご飯の準備、してるから。二人で、来てね?」
「分かった」
 返ってきた言葉に、躊躇いながらも一樹はもう一度頷いて。
「こっち、光ちゃん」
「ん、サンキュ」
 その返事に一樹は扉へ向かい、光を先に室外へと促して、それから不安そうにこちらを見遣る。その表情に健と、そうして小次郎が小さく頷いて見せると、ようやく一樹は外へと出ていった。
「……で?」
「あん?」
「いったい何の用件で、あんたみたいな人が此処へ?」
「行っただろ、一樹に絶賛お勧めされたからだってな」
「たったそれだけのことで、わざわざこんな所まであんたが足をのばすとは考えにくいんでね」
 言いながらも、健は小次郎に椅子を勧めてくる。思わずその顔を見遣れば、
「あんたが一樹の知り合いだってんなら、世話になってる相手を無下にはできないだろ」
「へえ?」
 不本意そうな健の言葉に、小次郎はなるほど確かにこの男は一樹曰く保護者然としてわけだ、と納得する。
 一樹にとっては、ある意味難儀なことだろう。
 椅子を勧めた上に、出された冷えた茶に、小次郎は小さく笑う。
「だからってこれはお人好しすぎねぇか?」
「どうとでも。で、用件は何なのか、いい加減説明してくれませんかね」
 半ば嫌みの混じった丁寧な物言いに、小次郎は再度笑う。
「ビジネスの話をしにきた」
「ビジネス?」
「うちで、仕事をする気はないか」
「は?」
「こんな風に、細々とやっていく立場に甘んじてていい才能じゃねぇだろ、お前は」
 どっしりと腰をおろした小次郎は、鋭い眼光で健を射抜いたままそう告げる。
「は? 俺が?」
「…………一樹が歯がゆい気持ちでいたのも当然だな」
 そう言って小次郎は盛大な溜息を零した。溜息の理由などわかる筈もない健は、しかし一樹の名前が出たことで、改めて疑問に浮かんだことをそのまま言葉にする。
「そう言えば、なんで一樹があんたみたいな人と知り合ったんだ」
「ああ、そもそもは、光−さっき顔出した奴だけどな、光が一樹と知り合ったんだ。どっかの本屋だったか、カフェだったか、美術館だったかは忘れたが。まあ、最初は光と一樹が知り合って、なんだかやたら馬があったらしいな。その流れで、ちょくちょく俺とも顔を合わせるようになって気がついたら懐かれてた感じか? まあ、あいつの物怖じしないところは気持ちがいいしな」
 言いながら小次郎はようやく出されたコップに手を伸ばした。
「……で、それがなんで此処にくることに?」
「あ? ああ、なにかの時に一樹があんたの作ったものを着てたのを見てな。話を聞いたら、あんたのデザインだってことで俺が興味を持ったら、色々見せてくれたぜ?」
 その言葉に、健は目を丸くする。
「元々、気にしてた……ってより、さっきも言ったけど、歯がゆかったんだろうぜ、一樹は。お前が、有名になろうともせずに、此処でくすぶってるのが。俺がお前の作った物を評価したのが相当嬉しかったんだろうな、そりゃあもう嬉しそうにあれやこれやと。……だけど、あれだな。今日来て、そこに置いてるのをみてよく分かったが、アレは一樹のためだけに作ったモンってわけだな」
 その言葉に、健は眉を寄せる。
 確かにそうだ。確かに自分はデザインを、そしてそこからのいわば物作りを職としているけれど、実際のところは『一樹のために』作る、それが一番の目的で、そして……喜びなのだ。
「そこまで分かってるなら」
「それでも、俺としてはお前の作り出すデザインが欲しいと思ってる。例えばそうだな、これ」
 言いながら小次郎が差し出したのは、一枚のスナップ写真。写っていたのは光と並んで笑顔の一樹の姿。羽織っているのは、健が作った上着。
「これなんか良いな」
「悪いけど」
「わーかってる。一樹のために、一樹に似合うようにってデザインだろ。確かにな、これだとそうだろうよ」
「だったら」
「このまま使うことはしない。ざっぱに言えば、お前は別に今までのように一樹のために作ってくれりゃあいい」
「は?」
「原型のまま出すことはしない。これを元にもう少し一般的にウケるように手を加えさせてくれないか。簡単に言えば、これにうちのテイストを加えさせてもらいたい」
「それは」
「一樹の口癖、教えてやろうか?」
「は?」
「『健ちゃんの服、かっこいいし素敵だから、もっと色んな人が着てくれたらいいのに』、もしくはそうだな、『健ちゃんの服、絶対日向さんが着ても見劣りしないんだから』ってのもあったかな」
 そう言って小次郎は手にしたスナップに目をやりながら、自慢げにそう告げた一樹の顔を思い起こす。
「まあ勿論、うちように一からデザインをしてくれるにこしたことはないが、贅沢は言わないさ。ただそうだな、定期的にデザインをあげてくれりゃあ嬉しいかな。一樹用には、デザイン溜めこんでるんだろ? 支障のない範囲でそれを見せてくれるだけでも構わねぇ。使いたい生地やイメージにそった生地を探したい時なんかは、うちの伝手を大いに利用してくれりゃいい。悪い話じゃねぁだろう?」
 それに。
 そう言って、小次郎は健の顔を見やり、笑う。
「たまには、あいつを喜ばせてやってもいいんじゃなぇのか?」
 そうの言葉に、健は小さく眉を寄せた。
「ま、返事は急がねぇよ。じっくり考えてくれれば良い。ただし」
「……ただし?」
「あんまり今回のことで一樹を問い詰めてやってくれるなよ。此処にこうやって来たのは、俺の独断だ」
 それはさっきの一樹の反応から健も理解はしていたので、健は些か不本意ながらも頷いた。
「ま、快諾してくれるに越したことはねぇがな。で、どうするんだ?」
「え?」
「この後。飯の準備だったか? してるから、『二人で』来てねっつてただろ、一樹のやつ」
 ああ、とその言葉に再度眉根を寄せる。
 場所を教えて一人で行かせることが出来ないわけではない。子供じゃあるまいし、それくらいのことは簡単だろう。
 けれど確かに一樹は二人でと念を押し、そして自分も分かったと頷いてしまったのだ。反故にすれば、一樹の機嫌は暫く下降線だろう。いや今回は、発端の事が事だけに、反故にしても咎められることはないかもしれにないが。
 それでも。
 一樹との約束は、例えどんな些細なものだろうとも叶えてやりたい、いや叶えてやると決めていた。もうずっと昔から。
 何を大げさな、そう言われようとも、それが唯一といってもいい、今日まで健が貫いている意志だ。
「…………少しだけ、待っくれ」
「あ?」
「奥の戸締りだけ、すませてくる」
「ああ、なるほど。分かった」
 頷いた小次郎に、彼が悪いわけでもないのだけれど、それでも堪え切れなかった溜め息を一つだけ落とし、そうして言葉通りに戸締りのためにその場を後にする健なのだった。