「ここはね、風の通り道なの」
彼女はそう言って、微笑んだ。
「そして、私の家は代々その風の道を護り続けてきたの。ずーっと昔から。気の遠くなる程昔から、護り続けて来た。それが、私達の誇りよ」
そう言いながら、ゆっくりと彼女は空に向かって両手を差し伸べた。
雲の切れ間から差し込む陽の光に照らされたその姿。不意にそよぎ始めた涼風になびく、漆黒の髪。
記憶の内に鮮明に残されたその姿。
神々しいまでに美しく、そして儚いその姿。
「誇り、なのよ」
繰り返される、その一言。悲しいまでに意志的な言葉。
いつだって彼女は風を纏っていた。
そう、その時も。
護るように、そして拒絶するかのように。
『誇り、なのよ』
1.記憶
その山間の村に初めて訪れたのは、幼稚園に上がった年の夏だと両親からは聞いている。
祖父母の知人が経営しているという、その村にある小さな民宿。そこに祖父母両親と共に、夏休み期間を利用して訪れたのが、初めてだったと。
それから毎年の様に家族でそこを訪れていた僕が、彼女に初めて会ったのは、十才の夏休み。その時の事は、今でも鮮明に覚えている。
それ程に、印象的でいて鮮烈な出来事だったのだ。
その日、僕は一人で民宿の裏にある林の中を歩いていた。正確に言えば裏山へと続く竹林の中を。
両親にも祖父母にも、そして民宿の経営者である老夫婦にも、一人で勝手に入ってはいけないときつく言い含められていたのだが、けれどそう言われれば言われるほど行ってみたくなるのが子供の常だ。
昼を食べ終わって僕はこっそりと民宿を抜け出し、林の中へと向かった。
林の中は昼間だと言うのに、薄暗かった。見上げると頭上に幾重にも重なった竹の葉が見える。元来の僕ならば、きっとその時点で宿に引き返していたに違いない。暗い所が嫌いだったし、同い年の子供達に比べ僕はいささか臆病だったから。
けれど、その日は何故か全然怖いだとか思わなかった。僕にとっては初めての一人での冒険だったからか、その時は怖いどころかむしろその暗さすら、楽しかった。
僕は迷う事なく、更に奥へと進んで行った。ズンズンズン、といった勢いで。
最初思った薄暗さは、目が慣れてなかったせいもあったのだろう。暫く行くと、背の高い青竹の間から射し零れる光の多さに気がついて、益々気分は高揚して行く。
都会ではまず嗅ぐことの少ないだろう、清々しい青竹の匂い。よくよく耳を澄ませば、鳥の声も聞こえた。
こんなに気持ち良い綺麗な所に、どうしてみんな入っちゃダメだなんて言うんだろう。そう思いながら、僕は更に奥へと進んでいた。
どれくらい歩いた頃だったろう。
不意に竹林が途切れ、大きな門が目の前に現れて、僕は思わずギョッとして立ち止まった。
突然周囲が静まり返った様に思えて、僕は恐る恐る周囲を見渡した。後ろに広がる竹林が、それまでとは打って変わってそら恐ろしい物に感じられて、小さく身震いする。
まるでその瞬間を見計らったかのように、突然強い風が吹き抜け、ザワザワと大きな音が周囲を包む。僕は急に怖くなって、無意識に両手で耳を塞ぎながらその場に座り込んでいた。
ザワザワ………ザワザワザワ………。
まるで何かがわざと竹を揺すっているかのように、ざわめきは一向に収まる様子がなくて、その時になって初めて僕は両親達の言い付けを破って林に入った事を後悔した。
それまで影を潜めていた臆病な部分が、ゆっくりと首をもたげ始めて。僕が今にも泣き出しそうになった、その時。
ピタリと風が、ザワザワと言う音が、止んだ。
そろそろと、僕は顔を上げた。
目の前の門。そこに佇む影があった。ほっそりとした小柄な人影。
さーっと、それまでとは違う、涼やかな風が吹き抜けて。その人の長い髪をふわりとなびかせた。そして、まるでその瞬間を待っていたかの様に、一筋の光がその人の姿を周囲から浮かび上がらせた。
僕は大きく目を見開いて、その人をただ見つめていた。
白い、白い顔。そして、赤い唇。昔、祖父母の家で冬に見た光景が思い起こされた。真っ白に降り積もった雪の上に、一つ落ちていた椿の花。
|