■Imitation Blue■
3.穏やかな接触
そうやって僕が僕として目を覚ましてから。一ヶ月近くが経った今もなお、僕は自分自身の事について大した情報を得られないままの状況だ。 目を覚ました当初に比べれば、【リハビリ】の頻度は少なくなっていた。記憶を取り戻す事は、容易ではない。そう判断したのだろう彼らは、記憶の回復作業は早々に中断し、代わりに【能力】の回復(と言うよりは再構築、または再取得?)の方に重きを置くことにしたのだろう。 僕に逃走の意志がないと判断した(いや、延々僕がそれを訴えて、漸く認められたが正しいのか)彼らは、休憩時間の監視体制を改めてくれた。常にピッタリ張り付いていた監視員は、与えられた休憩時間は全く僕を自由にさせてくれるようになったのだ。 勿論周囲には研究所の誰かしらがウロウロしている様な場所だから、誰の目も無い状況なんて物ではないけれど、それでも僕にとっては大いに有難いことだった。まあその為に『逃走する気なんてあるわけがない』と彼らに認識して貰ったんだけれど。 その日、僕は中庭をブラブラ歩いていた。周囲四方を研究棟の壁に囲まれたそこは、この外界から切り離された様な場所で、唯一たっぷりの自然が満喫できる場所だった。 天気は上々で、正に散歩日和。上空に見えるのは残念な事に相変わらず四角く切り取られた青空だけれど、それでも青空を見上げる事が出来る、それは今の僕にとって何よりの贅沢に思える。 ベンチに腰を掛け、上空を見上げる。晴れ渡った青空。眩しい日差し。目に染み入る様な、その空の青。 と。不意に、違和感を覚えた。でも何に? 無言で僕は上空を睨みつける。広がる、空。四角く切り取られた、限りのある青空。 不意に気づく。 僕の望んでいるのは、こんな小さな青空なのか?違った筈だ。望んでいたのはもっと違うもの。 そう、どこまでも広がる蒼い蒼い空。広がる大地……。 何故だ。そんな光景を僕は知らない。見たことなんてない。今の僕には、ここが全てだ。かつては知っていたのだとしても、記憶のない僕に、そんな物は分からない。なのに、どうして。 混乱しかけた僕の思考を、不意に何かが現実に引き戻した。 何だ? 視線を向けると、目の前に白い紙が舞っている。それも大量。僕の思考を呼び戻したのは、その書類の持ち主の零した小さな叫び声だったみたいだ。 小柄な女性だった。見兼ねて僕は立ち上がった。 「どうぞ」 拾い上げた書類の束をそう言って差し出すと、地面に落ちていた書類を拾っていた彼女は弾かれた様に顔を上げ、僕を見つめる。 驚愕の、表情。 「どうぞ?」 僕を見つめたまま一向に書類を受け取ろうとしない彼女に、僕はもう一度そう言わなければならなかった。 「あ、ああ、ごめんなさい有難う」 漸く我に返ったのか、彼女はそう言って僕の手の中から慌てて書類の束を受け取った。 「どういたしまして。枚数、揃ってますか?」 「え?あ、ああ!そうねっ」 僕の言葉に漸く思い至ったのか、彼女は慌てて書類の枚数を確認し始める。なんだか微妙にノンビリした人だ。 「あ、大丈夫。揃ってるわ、ありがとう」 彼女はそう言って、ホンワカとした笑みを浮かべた。笑顔までノンビリしてる。 それでも目が覚めてから初めて見た他人の笑顔に、自然と僕の顔にも笑みが浮かぶ。 と、それから不意に気が付いた。僕自身、目覚めてから笑ったのは今のが初めてだったという事に。 何て殺伐とした一ヶ月間。 軽く眉を顰めた僕に、彼女は心配そうに僕を見上げてくる。 「大丈夫?気分でも悪いの?」 「え?あ、いや違います。何でもないんです、ごめんなさい気にしないで」 「そおう?」 「そうなんです」 ノンビリとした口調のままの彼女の言葉に、僕はそう返す。 彼女の口調につられ、何だかこっちまでノンビリとした気分になった。もう少しこの人と話をしていたい気分だ。 「お仕事中ですか?」 「どうして?」 「いや、何となく。僕は今休憩中で暇なんですけど、よかったらもう少しお話出来ませんか?」 「私と?」 「問題なければ」 さてこの提案に彼女は乗ってくれるだろうか。 何せ僕はこの研究所の、何やら大問題をかかえた所謂問題児なのだ。ここの研究員なのだろう彼女が、そんな僕の相手をしてくれるだろうか。 そんな、NOの返事を覚悟していた僕に、けれど彼女はあっさりとYESの返事を返してきて、却って僕の方が驚いてしまう。 「そんなに時間は取れないんだけれど、それでも良い?」 「……良いんですか?」 「あら何が?」 「いや……僕の事、知ってますよね?」 「一応は」 そう言いながらも、彼女はそれまで僕が座っていたベンチに腰を掛けた。 半ば呆然としながら、僕はそんな彼女の顔を見つめた。 余程呆然とした表情をしていたのか、そんな僕の顔を見返して、彼女はフフッと小さな笑い声を漏らしながら僕を手招く。 「座ったら?」 その促しに僕は漸く頷いて、それから彼女の隣りに腰掛けた。 「あの……」 「なあに?」 「僕から言っておいてなんですけど、良いんですか?本当に」 「どうして?」 「いや……同じ事の繰り返しになるんですけど、僕の事、知ってるんですよね?」 「ええ、それは一応は」 「一応……って」 「私、ここに来たのは三ヶ月前なの。だから正直言ってここの事って良く知らない事の方が多いっていうのが本当の所なのね。だから、以前の貴方の事を詳しく知っているわけじゃないわ。そうね、何度か見かけた事があるくらい。今の貴方の事もよく知らないわ。ただ記憶喪失状態で、今はその回復に努めているらしいって事しか知らないわ。……だから貴方の質問には答えてあげる事、出来そうもないのよ?」 「あ、いや僕は別にそういうつもりで貴女を引き止めたわけじゃないんです、本当に」 「ふふふ。そう?ごめんなさい、ちょっと意地悪な言い方だったわね、私」 慌てて答えた僕の言葉に、彼女はやんわりと微笑んでそう言った。 「貴方とこうやって話す事を大部分の人が禁じられているのは、本当よ。でも私みたいに、以前も今も貴方と何ら関わる事のない人間は、特に禁じられていたりはしないの。だから、別に私の事を案じてくれる必要はないの、大丈夫」 「そう、ですか」 彼女の説明に、僕はホッと息をつく。 それならば、いい。僕と関わった事で、後で何か問題が起こっただなんてもし言われたら、堪らない。 「ここでは、何の研究をされてるんですか?」 「私?」 「ええ。あ、話しちゃいけない事なら、構いませんから」 「別に大丈夫よ?私の研究でしょう?専門分野は植物学なの。だから普段はあまりこっちにはこないのよ。今日はたまたま、第四研究棟に用事があったから。その帰りなの。折角だから中庭を突っ切っちゃえと思って通ったら、見事に躓いちゃって。で、書類をバーンッと撒いちゃったってわけ。落ち着きがないったら」 そう言って彼女は笑う。 そうか。どおりで見た記憶のない人だと思った。僕に関係してなくて、その上棟まで違うのなら、知らないのも当然だな。 そう考えながら、僕は彼女を見る。 ぱっと見は僕と同じ歳ぐらいに見えるけど、きっと違うんだろうな。自分では落ち着きがないとか言ってるけど、実際本人から漂う雰囲気は、しっかりとした落ち着いた大人の物だ。 そして僕の周りを囲んでいる大勢の研究者とは人種すら違っていそうだ。そんな人がこの不可解な研究所内に居るだなんて思ってもいなかった。まあ確かにかなりの規模を持った研究所の様だから、彼女の様な人達が居ても不思議ではないのだろうけれど。 でも、確かあの威張りんぼうのおじさんは、僕の【回復】に研究所のほぼ全員に近い人員を割いている、そう言っていなかったか?それともこの広大な規模の研究所の中には、複数の研究機関が同居していると言う事なのだろうか?研究棟一つ一つが独立している様な形で? 「でも、こうやって貴方と話をしてるなんてなんだか不思議」 「え?」 不意の彼女の言葉に、僕は思わずそう訊き返していた。 「今の貴方が彼と同一人物だなんて、ちょっと信じられない感じ」 「それは以前の僕の事ですか?」 「そうね、そうなるわね」 「僕の事は知らないって、そう言いませんでしたか?」 「詳しくは知らない、そう言ったのよ。とは言っても、私の貴方に対する認識は知ってる知らないのレベルの物じゃあ全くないけれど。……何度か見かけた事があるって言ったでしょう?」 「ええ」 「その時に思った事だけ。その印象だけで言うと、以前の貴方はいつも無表情で、何だか凄く近寄りがたかった。勿論私達みたいな一般研究員が容易く近づける人じゃなかったから、それは当たり前なんでしょうけど。でもそれだけじゃなくって、貴方自身が周囲を拒んでる様な気が私はしてた。あと、折角の綺麗な顔に笑顔一つ浮かべないなんて勿体無いなあって、そうも思った事があるかな」 彼女はそう言うと、僕を見上げる。 「だからさっき貴方に声をかけられて驚いたの。眉一つ動かさない様なイメージを持ってた人が、にこやかに話し掛けてきてくれるなんて、って。でも思ってた通り、貴方やっぱり笑顔が似合うわね。勿論記憶喪失だなんて大変な事になってるんだから、笑ってなんてられないのも解るけど……。でも、こうやって折角のお天気の中なんですもの。そんな時ぐらいはリラックスしても良いんじゃない?」 そしてニッコリと微笑んで、彼女は立ち上がった。 「じゃあ、私はそろそろこれで。書類、拾ってくれてありがとう」 「あ、いえ。僕こそ、すみませんでした。足止めしちゃって」 「いいえ。話が出来て、ちょっと嬉しかったわ。じゃあね」 彼女はそう言って小さく手を振ると、その場を立ち去っていく。 その時になって僕は初めて気が付いた。 「……しまった。名前すら聞いてないや」 なんてマヌケ。 まあ、いいさ。その内またバッタリ顔を合わす事だってあるかもしれない。 その時も、また笑顔になれればいいけど。 そう思いながらも、僕は彼女の言葉の一つ一つを思い起こす。 普段こっちには来ないと言っていた彼女が、それでも僕を見かけた事があるという事。どうしてだろう? 今日の様に中庭で?そういう事だろうか。 でもどう考えても、以前の僕がこうやって今の様に簡単に中庭へ出られた様には思えない(なんたって彼女曰く、一般の研究員が簡単に近寄れる相手ではなかった筈なのだから、僕は)。それに何故かは解らないが、出ようとしていたとも思えない。 だったら、どうして? この研究所以外の場所で、そう考えるのが自然なのだろうか。でも、この中庭にさえ自由に出入りしない様な人間が、他の場所で彼女に目撃されるなんて事が果たして有り得るのか……。 一般研究員の近寄れない人間。それから、眉一つ動かしそうにない、無表情。 一体僕はどんな人間だったんだ。 ああ、駄目だ。考えすぎると気持ち悪くなってくる。 そう言えば、さっき何かが僕の頭の中でひっかかっていた筈だったのに、それすらもどこかに消えてしまっている。 何か。何かを掴みかけた筈だったのに。 けれど一度取り逃がしてしまったその感覚は、もう二度と僕の手の中に戻って来てくれそうには、なかった……。 |