■風の記憶■
1 最初の記憶
その山間の村に初めて訪れたのは、幼稚園に上がった年の夏だと両親からは聞いている。 祖父母の知人が経営しているという、その村にある小さな民宿。そこに祖父母両親と共に、夏休み期間を利用して訪れたのが、初めてだったと。 それから毎年の様に家族でそこを訪れていた僕が、彼女に初めて会ったのは、十才の夏休み。その時の事は、今でも鮮明に覚えている。 それ程に、印象的でいて鮮烈な出来事だったのだ。 その日、僕は一人で民宿の裏にある林の中を歩いていた。正確に言えば裏山へと続く竹林の中を。 両親にも祖父母にも、そして民宿の経営者である老夫婦にも、一人で勝手に入ってはいけないときつく言い含められていたのだが、けれどそう言われれば言われるほど行ってみたくなるのが子供の性だ。 昼を食べ終わって僕はこっそりと民宿を抜け出し、林の中へと向かった。 林の中は昼間だと言うのに、薄暗かった。見上げると頭上に幾重にも重なった竹の葉が見える。元来の僕ならば、きっとその時点で宿に引き返していたに違いない。暗い所が嫌いだったし、同い年の子供達に比べ僕はいささか臆病だったから。 けれど、その日は何故か全然怖いだとか思わなかった。僕にとっては初めての一人での冒険だったからか、その時は怖いどころかむしろその暗さすら、楽しかった。 僕は迷う事なく、更に奥へと進んで行った。ズンズンズン、といった勢いで。 最初思った薄暗さは、目が慣れてなかったせいもあったのだろう。暫く行くと、背の高い青竹の間から射し零れる光の多さに気がついて、益々気分は高揚して行く。 都会ではまず嗅ぐことの少ないだろう、清々しい青竹の匂い。よくよく耳を澄ませば、鳥の声も聞こえた。 こんなに気持ち良い綺麗な所に、どうしてみんな入っちゃダメだなんて言うんだろう。そう思いながら、僕は更に奥へと進んでいた。 どれくらい歩いた頃だったろう。 不意に竹林が途切れ、大きな門が目の前に現れて、僕は思わずギョッとして立ち止まった。 突然周囲が静まり返った様に思えて、僕は恐る恐る周囲を見渡した。後ろに広がる竹林が、それまでとは打って変わってそら恐ろしい物に感じられて、小さく身震いする。 まるでその瞬間を見計らったかのように、突然強い風が吹き抜け、ザワザワと大きな音が周囲を包む。僕は急に怖くなって、無意識に両手で耳を塞ぎながらその場に座り込んでいた。 ザワザワ………ザワザワザワ………。 まるで何かがわざと竹を揺すっているかのように、ざわめきは一向に収まる様子がなくて、その時になって初めて僕は両親達の言い付けを破って林に入った事を後悔した。 それまで影を潜めていた臆病な部分が、ゆっくりと首をもたげ始めて。僕が今にも泣き出しそうになった、その時。 ピタリと風が、ザワザワと言う音が、止んだ。 そろそろと、僕は顔を上げた。 目の前の門。そこに佇む影があった。ほっそりとした小柄な人影。 さーっと、それまでとは違う、涼やかな風が吹き抜けて。その人の長い髪をふわりとなびかせた。そして、まるでその瞬間を待っていたかの様に、一筋の光がその人の姿を周囲から浮かび上がらせる。 僕は大きく目を見開いて、その人をただ見つめていた。 白い、白い顔。そして、赤い唇。昔、祖父母の家で冬に見た光景が思い起こされた。真っ白に降り積もった雪の上に、一つ落ちていた椿の花。 「ぼうや、どうしたの?」 不意にその赤い唇から、そう言葉が紡がれて。 ようやく僕はその場に立ち上がった。 怒られるだろうか、不意にそう思う。 「あ、あの……」 「一人?」 「あ、はい」 「どうして、ここに?」 「ご、ごめんなさいっ」 謝った僕に、その人は一瞬目を丸くして、それからふふっと小さな笑い声を零す。 「どうして謝るの?」 そう言って、彼女は門へと続いている階段を、ゆっくりと降りて来る。 どうしてと言われても、僕にもよく分からない。思わず声にした言葉だったから。 「どこから来たの?」 「あ……この先の、民宿……」 その言葉に、彼女は小さく頷いた。 「宮原さんのお宿のお客様なのね」 そう言われて僕はコクンと一つ頷いた。 「お名前は?」 「……僕?」 「ええ。私は、綾香(あやか)。大河内(おおこうち)綾香よ」 「あやか、さん?」 「そう。あなたは?」 再びそう聞かれて、僕は慌てて答える。 「時原雅(ときはらみやび)、です」 「雅?綺麗な名前ね」 そう言って微笑まれ、僕は思わず彼女を見上げていた。 「きれい?」 「ええ、とても」 そう頷かれて、僕は正直戸惑っていた。 綺麗な名前だなんて、家族以外の人から言われた事はなかったから。それどころか、女の子の名前みたいだと、からかわれる事の方が多かったのだ。 「素敵な名前ね」 重ねてそう言われ、急に僕は照れ臭くなった。自然と頬が緩む。 「あの、綾香さんは、どうしてここに?」 「私?この奥に私の家があるのよ」 「そうなの?」 「ええ」 「だから、入っちゃダメッて言われたのかな」 「駄目って言われたの?」 「うん。一人で入っちゃダメって。間違って綾香さんのお家に入ったりしないようにって事なのかな」 「……そうかも、しれないわね」 綾香さんはそう言って。ゆっくりと後方へと向き直った。 「……ここはね、風の通り道なの。風の神様の通り道」 「風の神様?」 「ええ。この山の守り神様。そして、この村の守り神様。だからみんな此処を特別で神聖な場所だと思っているのね。別に入って来たからといって神様の機嫌を損ねてしまうとか、そんな事にはならないのだけれど」 彼女はそう言って、僕を振り向く。 「でも、そうね。怒られない様に内緒にしておきましょうね。今度来る時は、ちゃんとお家の人に言ってからいらっしゃい。大丈夫、風の神様は子供の事、大好きでいらっしゃるから、怒ったりなさらないわ」 綾香さんはそう言って微笑んで、それから付け加える。 「もし駄目って言われたら、私に遊びにいらしてねって言われたって、そう言えば良いわ。ね?」 悪戯っぽく微笑んでの言葉に僕は大きく頷いて、ちゃんと次は言って来ます、と約束する。彼女はその言葉に頷いて、それから小指を差し出した。 「指きりね?」 「うん!」 その細い小指に、自分の小さな小指を絡ませて、僕はもう一度約束を口にする。そして、みんなが心配してるかもしれないから今日はもう戻った方が良いわ、との言葉に頷いて、僕は元来た道を引き返した。 途中振り向くと、門の前で綾香さんが見送ってくれているのが見えて、僕は大きく手を振った。小さく振り返された手が何故だかやけに嬉しくて、その照れくささも相まって、僕は一気に宿まで駆けて帰った事を、今でもはっきりと覚えてる。 それが彼女と出会った最初の日の、記憶。 |